テロ組織とはテロリズムを実践する組織である。またテロ組織を支援するとされるイランやシリアなどの国家はテロ支援国家と呼ばる。冷戦後のテロ組織はイスラム主義の運動と関連しており、従来の分離主義や民族主義の運動と並ぶテロ活動の動機となっている。
対テロ戦争の主体として特に有名なテロ組織として挙げられるのがアルカイダである。アルカイダはウサマ・ビン・ラディンによって主導されているが、固定的な構成員を持つ組織ではなく、首脳部によって構成される中核を中心とするテロリストの流動的かつ広範なネットワークであるとされている。[3]
ビン・ラディンの主張はサウジアラビア駐留米軍の撤退、サウジアラビアの税制や保健衛生の改革、イラク制裁の解除、パキスタンやチェチェン、カシミールでの人権弾圧の解決である。第二次世界大戦での核攻撃、戦後の核開発、イスラエル支援、人権侵害などを理由にアメリカを「史上最悪の文明」として強く非難する。[4]
またアルカイダと関係があったとされるタリバンはムハンマド・オマルが指導するイスラム主義運動の流れを汲む政治勢力であり、かつてアフガニスタンを支配していた。また反シオニズムの政治勢力であるハマースやヒズボラはレジスタンス活動でもあるが、その手法がテロリズムであるためにテロ組織と呼ばれることもある。
テロリズムを定義することは難しいが、その目的から政治的な策略として理解することができる。つまり暴力によって政府や社会に対する心理的な衝撃を与えるための手段であり、より大きな政治戦略の一環として位置づけることができる。軍事学的に見れば、テロ攻撃はゲリラ戦のような不正規戦でしばしば利用される作戦である。テロ攻撃に必要な計画、人員、装備、訓練、拠点などは高度に秘匿されながら準備され、敵である政府や軍事組織だけでなく、一般市民までをも攻撃の対象とする場合もある。これは攻撃の物理的な成果は本質的には重要ではなく、その攻撃でもたらされる恐怖や畏怖が狙いであるためである。
テロ攻撃を防御することは極めて困難である。テロ攻撃の被害を防ぐためには不正規戦において敵に攻勢をかける必要がある。しかし伝統的な軍事力に対する作戦とは異なり、不正規戦の特性に合致した作戦能力が必要である。この作戦能力が備わっている戦力として特殊部隊が高く評価されている。特殊部隊はテロリストを発見してから排除するまでのあらゆる機能を集約した部隊である。対テロ作戦として、特殊部隊はさまざまな情報源を活用した諜報活動、対ゲリラ作戦のような存在が秘匿された敵を迅速に発見、拘束して殲滅する戦闘、また現地の行政機関や治安機関との関係を構築して連携する民事作戦、公共サービスの提供などによって現地住民の人心を掌握する心理戦を行う。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロにより、ハイジャックされた2機の飛行機はニューヨークの世界貿易センタービル、1機はワシントンDCの国防総省に衝突し、1機はペンシルヴェニアに墜落した。
結果として約3000人の民間人が
ダイビング
し、世界的に大きく取りあげられた。事件はアルカイダによるものと報道され、国際テロ組織の脅威が強く認識されることになった。米大統領ジョージ・W・ブッシュはこの大規模なテロ事件をうけて9月12日の国家安全保障チームの会合において、このようなテロ攻撃はもはやテロリズムではなく「戦争行為(acts of war)」であると述べた。
こうして自由と民主主義が危機に瀕している情勢と主張し、このような新しい脅威に対抗するためにテロリズムとの戦い、すなわち対テロ戦争の重要性が論じられるようになる。
9月20日にはブッシュ大統領は米国議会と国民に対して訴えかけ、オサマ・ビン・ラディンが指導するアルカイダなどの国際テロリズムの存在を指摘した上でアルカイダがアフガニスタン政府によって支援されていると述べ、当時アフガニスタンを統治していたタリバンを非難した。
10月7日、有志連合は「テロリズムに対する汎地球戦争」としてアフガニスタン侵攻を開始した。アメリカ軍が主力となり、『不屈の自由作戦(Operation Enduring Freedom-Afghanistan, OEF-A)』を実行してアルカイダと繋がりがあるとされたタリバン政権を攻撃した。これが対テロ戦争における最初の戦いと位置づけることができる。
北大西洋条約機構もこの軍事作戦に賛同はするが、主要な作戦への参加は各国の自主性に委ねた。関連する作戦として10月16日に海上阻止を行う『活発なエンデバー作戦(Operation Active Endeavour)』を公式に開始した。
また不屈の自由作戦はアフガニスタンだけでなく、有志連合によって2002年にはフィリピン、グルジア、ジブチ、エチオピア、ソマリアでも行われた。これら作戦は地域の安定化のための治安作戦や軍事支援などを含むものである。
タリバン政権を打倒した後も
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夜行バス
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のバリ島やテロ事件などが続き、またアルカイダの指導者であるウサマ・ビン・ラディンも行方も不明であり、テロリズムの脅威はなくならなかった。対テロ戦争は続き、2002年1月29日の一般教書演説ではイラク、北朝鮮、イランなどを名指しして「悪の枢軸」を発言した。核開発疑惑をめぐってはイラクのフセイン政権への敵視を強める。
テロリストが入手可能なイラクの大量破壊兵器について国際原子力機関がイラクを調査し、そのような疑惑は否定される。しかしアメリカはその報告を否定し、2003年3月19日にイラク戦争を開始してフセイン政権を倒すが、大量破壊兵器は発見されなかった。
イラク戦争によってフセイン政権が打倒されると、イラクでは部族、民族、宗派をめぐる対立が激化し、治安が急速に悪化する。また2003年にはカサブランカ、インドネシア、トルコなどでテロ事件が相次いだ。
イラクでフセイン政権を打倒した後の2004年3月にパキスタンではワジリスタン戦争が開始された。パキスタン軍や地域の武装勢力とタリバンの戦いであり、アメリカもアルカイダを掃討するために作戦に参加した。この作戦によってアフガニスタンとパキスタン国境地帯のタリバン勢力は打撃を受けた。
しかし2004年3月11日にアルカイダ系のテロ組織によってスペイン列車爆破事件が実行され、またチェチェン共和国独立派によって9月1日にベスラン学校占拠事件が発生した。2005年にも7月7日にロンドン同時爆破事件が引き起こされ、21日にも二回目のテロ事件があった。それ以後もエジプト、インドネシア、インド、アンマンでもテロ事件が続いた。
対テロ戦争は終結の見通しが立っておらず、またイラク戦争において開戦した理由が翻ったためにその正統性に対する批判もある。イスラム原理主義に根ざしたテロ組織ではアメリカとイスラエルの軍隊がダール・アル=イスラームの征服をもくろんで開始したものであり、イスラム教徒が彼らと戦うのはアッラーの道にかなったジハードであるとしている。対テロ戦争でパレスチナ問題のパレスチナ側の組織がテロ組織として挙げられていることなどにより、正統性に嫌疑を投げかける材料とされている。
2002年9月19日、バボ大統領の軍機構改革で退役を迫られたことなどを不服とする軍人ら約750人による反乱軍「コートジボワール愛国運動」が、アビジャンやブアケなど主要都市で蜂起した(コートジボワール内戦)。政府軍との戦闘によって、反乱軍の黒幕と見られるゲイ前大統領が死亡。一方の政府はドゥドゥ内相が殺害、アミチア・スポーツ相も身柄を拘束され、22日までに戦闘による死者は270人、負傷者は300人に上った。22日にフランスは自国民らの保護を目的に国軍を
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へ派遣し、27日までに日本人11人を含む1,500人を救出した。
29日には西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)がガーナのアクラで緊急首脳会議を開き、政府軍と反乱軍の仲裁に乗り出すことを決めた。バボ大統領は10月12日にクアシ国防相を解任し、自ら国防相を兼任すると発表。対する反乱軍は17日にブアケでセネガルなどの調停に応じて停戦協定に調印、政府側も停戦に応じた。ECOWASは26日に停戦監視のため西アフリカ諸国平和維持軍(ECOMOG)を派遣することで合意し、11月には政府と反乱軍がトーゴのロメで和平交渉を開始した。11月28日に西部のマン周辺で正義平和運動や大西部人民運動を名乗る反政府勢力が政府軍と交戦、29〜30日にかけてはフランス軍とも衝突して、反政府勢力の約10人が死亡し、フランス軍も兵士1人が負傷する事件が発生したが、2003年1月にパリ郊外で開かれた和平会議で3つの反政府勢力、野党の各代表が暫定政府発足と内戦終結の和平案に合意し、7月には双方が「停戦」を宣言した。
この内戦の段階で反乱軍「新勢力」(FN)が急速に勢力を伸ばし、北部の地域を占領して支配下に置いた。政府は病院関係者や教師に対して、FN支配地域からの移動を命令したため、北部では医療・教育が崩壊し、衛生環境悪化など人道危機に直面している。「停戦」後も政府とFNの対立は続いて南北の分断は固定化し、国民の移動は禁じられた。
2004年10月にFNが挙国一致内閣より離脱した。政府軍は11月4日にFN占領地域を空爆、6日に政府軍がブアケのフランス軍を誤爆し、9名の仏軍兵士が死亡した。フランス軍は報復として、アビジャン空港などに駐機していたコートジボワール空軍機(Su-25×2機、ヘリコプター5機)を破壊した。この反動で、政府放送の扇動を受けた「ジュンヌ・パトリオット」(バボ大統領派の愛国青年運動)がアビジャン市各所で暴動を始め、フランス人の民家やフランス関連施設などに対する略奪・暴行・殺人事件が発生した。避難できない外国人およそ数百名を急遽退去させるため、仏軍は市内の要所を一時的に確保、その間に退去者をヘリコプターでアビジャン空港まで移送した。また、この際にフランス軍と群衆の間で銃撃事件が発生したが、実際の死傷者数、威嚇射撃の有無などに関する両国政府の主張に食い違いがある。
2005年4月、南アフリカの仲裁によって政府とFNら反政府グループの間で、「敵対関係の解消」「反政府組織の武装解除」などが合意されたが、手続きは停滞した。国連安全保障理事会は10月に大統領選挙を行うことを計画していたが、武装解除と大統領選挙実施に必要な住民登録ができないために、9月にバボ大統領の任期を1年延長することを認めた。12月にはセイドゥ・エリマン・ジャラ首相に代わって、西アフリカ諸国中央銀行(BCEAO)総裁のシャルル・コナン・バニーが首相に指名され、挙国一致内閣が再度組閣された。