1945年8月に日本がオランダを含む連合国軍に降伏すると、インドネシアの民族主義者は独立を宣言し(独立宣言文の日付は皇紀を用いている)、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦った。インドネシア人の側は、外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派と、オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより、かならずしも足並みは揃っていなかったが、戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。
独立宣言後に発足した正規軍だけでなく、各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し、降伏後に日本軍兵器庫から奪ったり、連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部がばら撒いたり横流ししたりした武器や弾薬で武装化した。これらの銃器の他にも、刀剣、竹槍、棍棒、毒矢などを調達して、農村まで撤退してのゲリラ戦や、都市部での治安を悪化させるなど、様々な抵抗戦によって、オランダ軍を苦しめた。
また、この独立戦争には、スカルノやハッタらインドネシアの民族主義者の理念に共感し、軍籍を離脱した一部の日本人2,000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立って戦い、その結果1,000人が命を落とした。
他方でインドネシア政府は第三国(イギリスやオーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣してインドネシア独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利にむけても尽力した。こうした武力闘争と外交努力の結果、1949年12月のハーグ円卓会議で、インドネシアはオランダからの独立承認を得ることに成功した。
オランダからの独立後、インドネシアは新憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた(1955年に初の議会総選挙を実施)。しかし、種族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様なインドネシアで、各派の利害を調整することは難しく、議会制は機能しなかった。また、1950年代後半には中央政府に公然と反旗を翻す地方反乱が発生し、インドネシアは国家の分裂の危機に直面した。
この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。
スカルノは、政治勢力として台頭しつつあった
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を牽制するためにインドネシア共産党に接近し、国軍と共産党の反目を利用しながら、国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期さかんにスカルノが喧伝した「ナサコム(NASAKOM)」は、「ナショナリズム(Nasionalisme)、宗教(Agama)、共産主義(Komunisme)」の各勢力が一致団結して国難に対処しようというスローガンだった。
スカルノの「指導される民主主義」は、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた(これ以後、インドネシアでは今日に至るまで、共産党は非合法化されている)。
1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復、スカルノ時代と対比させ、自身の政権を「新体制 (Orde Baru) 」と呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。
その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつも、インフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済成長を達成することに成功した。その一方で、東ティモール、アチェ、イリアンジャヤなどの独立運動に対しては厳しい弾圧を加えた。
1998年、アジア通貨危機に端を発するインドネシア経済崩壊のなかでスハルト政権は崩壊、インドネシアは民主化の時代を迎えて今日に至っている。スハルト政権末期の副大統領だったユスフ・ハビビが大統領に就任し、民主化を要求する急進派の機先を制する形で、民主化・分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカル、スハルト体制下で存続を許された2つの野党(インドネシア民主党、開発統一党)以外の政党の結成も自由化され、1999年6月、総選挙が実施された。その結果、同年10月、インドネシア最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、ワヒド(国民覚醒党)が新大統領に就任した。
2001年7月、ワヒド政権は議会の
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を失って解任され、闘争民主党のメガワティ政権が発足した。現在は、2004年4月に就任した第6代ユドヨノが大統領の任にある(歴代の大統領については、インドネシアの大統領一覧を参照)。
インドネシアは多民族国家であり、種族、言語、宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのは「多様性の中の統一 Bhinneka Tunggal Ika」というスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは、20世紀初頭からはじまった民族主義運動の歴史の中で、さまざまな民族主義者たちによって鍛え上げられてきた[1]。
そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである[2]。1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラ(サンスクリット語で「5つの徳の実践」を意味する)は今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた[3]。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを是として掲げている。
現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。 (1) 唯一神への信仰(イスラーム以外でもよいが無宗教は認容されない)、(2) 人道主義、(3) インドネシアの統一、(4) 民主主義、(5) インドネシア全国民への社会正義。
国家元首の大統領は、行政府の長を兼ねる。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会(後述)の決議により選出されていたが、第六代大統領からは国民の直接選挙で選ばれている。任期は5年で再選は1度のみ(最大10年)。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。
議会は、(1) 国民代表院(Dewan Perwakilan Rakyat:DPR:Peoples Representative Council:定数550)、(2) 地方代表院(Dewan Perwakilan Daerah:DPD:Regional Representatives Council:定数128)、そして (3) この二院からなる国民協議会 (Majelis Permusyawaratan Rakyat:MPR:People's Consultative Assembly) 、がある。
まず、(3) の国民協議会は、2001年、2002年の憲法改正以前は、一院制の国民代表院の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民評議会は、国民代表院とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民評議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、1年に1度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民評議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民評議会によるワヒド大統領罷免であった。
3年あまりの任期を残していた大統領を罷免した国民評議会の地位をあらためるため、メガワティ政権下の2001年と2002年におこなわれた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民代表院に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出されることになった。
これらの措置により、国民協議会は国民代表院と地方代表院の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民代表院と地方代表院のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員もすべて、直接選挙で選ばれる民選議員となった。
(1) の国民代表院は、2000年の第2次憲法改正によって、立法、予算審議、行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて、質問権、国政調査権、意見表明権が国民代表院に与えられ、また、議員には法案上程権、質問提出権、提案権、意見表明権、免責特権が与えられることが明記された。
(2) の地方代表院は、2001年から2002年にかけて行われた第3次、第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり、地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り、総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。