■MARK TO THE MARKET

チェチェン領内でのゲリラ戦に加えて、2002年10月に発生したモスクワ劇場占拠事件や2004年9月のベスラン学校占拠事件など、一般市民や政府などに対する攻撃も数多く起きている。 チェチェン独立派は、この戦争によりこれまで6万人の市民が死んでいると主張している。またロシア国防省はこの紛争で、1000人以上のロシア兵が死亡したと発表した。 チェチェン独立過激派に対するロシア連邦大統領 ウラジミール・プーチンの強硬策には批判も一部から出ているが、世界的な「テロとの戦い」という流れの中で、一般的にはチェチェン紛争もその「テロとの戦い」の一部とされることが多い。 2002年12月には、チェチェン共和国の首都グロズヌイで爆弾を積んだトラックが爆発。チェチェン共和国政府ビルが破壊され、70人以上が死亡した。ゲリラ戦は現在も続いているが、これはチェチェン独立派がロシアの統治下にいることに納得しないためであるとされ、抵抗運動が武力によって戦われている現状がある。 チェチェン独立派指導者の一部は西側諸国に対して仲介を要望し、またロシア連邦に対して抗議している。 紛争当初は各国から支援を得たが、アルカーイダ等テロ組織との関係を疑惑視され、現在では孤立無援となっている。 プーチンによる戦争終結宣言以降も、シャミル・バサエフに接近した、アミール・ハッターブに率いられたイスラム過激派のテロリスト等が、ロシア連邦軍とチェチェン政府に対するゲリラ戦を継続し、兵士や市民たちが殺害される事態が続いている。チェチェンの抵抗運動は捕らえた一般市民やロシア兵を殺害する様子をビデオテープに記録し、インターネット上に配信したこともある。 2004年には親ロシア派チェチェン大統領アフマド・カディロフが爆弾によって暗殺された。カディロフを通じてチェチェンの安定化を図ろうとしていたロシア政府にとって、この事件は大きな打撃となった。 もっとも現在では、上記のバサエフ・ハッターブ等、当初の過激派指導者は軒並み殺害されている。またその他の穏健派指導者も大半は国外へ脱出しており、独立派の弱体化も指摘されている。 チェチェン独立派は事件直後には犯行声明を出さないことが多く、むしろ発生後しばらくの間は自分たちの関与を否定するかのような発言を行い、ある程度時間が経ったときに初めて声明を出すことが多い。世間の関心が薄れた頃に犯行声明を出すことにより、「テロリスト」のイメージを薄めようとしているものと考えられる。 近年のテロの過激化を見るに、 イスラム原理主義過激派の勢力が加担していると考えられ、アルカーイダなどの関与も疑われる。 それに伴い、チェチェン内のイスラム過激派秘密結社の動きも注目される。また、自爆テロ事件の中には、チェチェン人女性が関わっているケースがあるが、これは殺害された武装勢力兵士の妻などが、仇討ちのためにテロに身を投じると考えられている。一説には、夫を失った妻のテロ組織「黒い未亡人」というグループが存在するともいわれる。 ジャンムー・カシミール州 (ヒンディー語:????? ?? ??????、カシミール語:???? ?? ????? ??? ??? ??????、ウルドゥー語:???? ? ?????、英語: Jammu and Kashmir)は、インド最北部の州。 ラダック地方を含む広義のカシミール地方全域を州とするが、この州はパキスタンも全域の領有を主張している。この地の獲得を巡り、数度にわたってパキスタンと戦争になった(印パ戦争)が、現在は停戦しカシミールの中間付近で停戦ラインを引いている。 夏季の州都シュリーナガルは、カシミール地方最大の外国為替 でインドの支配地域にある。冬季の州都はジャンムー市(ジャンム、ジャムとも表記されるが、原語で語末の音節は長母音である)。州の公用語はパキスタンの国語と同じ(簡易)ウルドゥー語のみ(カシュミーリー語などは「公用語」と定められていない)で、宗教もパキスタン同様イスラム教徒が多い。 1990年代から分離独立派がヒンドゥー教徒を襲撃する事件が相次ぎ、約4万5000人が殺害されている。 2005年10月の地震では、1,300人以上の死者を出した。 紀元前よりこの地域はマウリヤ朝が起こり、その後クシャーナ朝等を経て、ムガル帝国の支配下となる。ムガル帝国滅亡後、1846年までシク教徒の治世となり、そしてイギリス群がこの地を占領した。 1947年8月にインドとパキスタンがイギリスから独立した際、この地の帰属権を巡って紛争が勃発。(印パ戦争) 現在でもパキスタンとインドが領有を主張し、これまで大小の軍事衝突を繰り返し、現在はほぼ中間付近に停戦ラインが引かれている。 インドネシア共和国(インドネシアきょうわこく)は東南アジア南部の国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ。5,000km以上と東西に非常に長く、赤道をまたがる1万7,500もの大小の島により構成される。また2億4千万人が住む現在世界第4位の人口である。 島々によって構成されている国家であるためその広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島の東ティモール、カリマンタン島のマレーシア、ニューギニア島のパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国は、パラオ、インド、フィリピン、シンガポール、マレーシア、オーストラリアである。 のちにインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は、紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ、5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄え、シュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国、シンガサリ王国、マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり、人々のイスラム化が進んだ。 16世紀になると香辛料貿易のFX を求めてポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航し、17世紀にはバタヴィア(ジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。1799年に東インド会社が解散され、以後、東インドはオランダ本国政府の直接統治下に入った。 オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島をほとんど支配するようになる。この結果、20世紀初頭にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島のすべてがオランダ領となり、現在のインドネシアの領域がひとつにまとまった。 オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識がめばえた。ジャワ島では、1908年にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上をはかる活動に取り組んだ(その設立日である5月20日が「民族覚醒の日」と定められている)。 1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。インドネシアの民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年の「青年の誓い」である。 インドネシア国民党の運動は民族の独立(ムルデカ)を掲げ、青年の誓いでは唯一の祖国・インドネシア、唯一の民族・インドネシア民族、唯一の言語・インドネシア語が高らかに宣言された。しかし、インドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧され、スカルノやハッタが主導する民族主義運動も、オランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され、拷問を受けた末に長く外為 を送ることになり、以後の民族主義運動は冬の時代をむかえることになった。 オランダの植民地支配が1942年の日本軍の東インド一帯による侵攻によって瓦解し、東インドは日本の軍政下に置かれた。日本は大東亜政略指導大綱にもとづき、東インドを大日本帝国領土とする方針を決定した。日本はオランダに囚われていたスカルノやハッタらを解放し、日本軍政への協力を求めた。スカルノ、ハッタは日本軍政当局による人員、資源などの動員に協力しながら、与えられた公的ポストを活用して民衆の民族意識を鼓舞し、またこれに対し日本軍政当局の一部も協力した。 また、日本は戦局悪化の趨勢を受けてジャワ、スマトラ、バリの現地住民の武装化を決定し、募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心に、ジャワでは司令官以下すべての将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍(ペタ)が発足した。こうして日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数が、後の独立戦争期に結成される正規・非正規の軍事組織で、中心的な役割を果たすことになった。