1993年7月、アブハジア軍は、スフミを管理していたグルジア軍に対する攻撃に出た。町は包囲され、シェワルナゼも町中に幽閉される事態となった。9月27日、スフミはアブハジア軍の手に落ちた。新たに大統領に指名されて間もないシェワルナゼはこのとき、何事が起ころうともスフミに留まると宣言していたが、滞在していたホテルが狙撃手によって攻撃され、ロシア海軍に助けられてスフミから脱出した。
1993年10月、国連安保理はアブハジアの軍事行動、民族浄化を非難。
1994年5月15日、停戦合意が成立し、国際連合の平和維持軍が停戦の監視に当たっている。以後、戦闘は起こっていないが、その代わり、繰り返し行われている交渉による事態の大きな進展もない。グルジアの難民問題は深刻である。
1994年11月4日、アブハジア政府は新しい憲法を採択し、主権を宣言した。1996年11月23日、選挙が行われたが、グルジア政府や国際社会からは承認されていない。
2004年10月、再び大統領選挙が行われた。
イエメンは1990年に南イエメンと北イエメンが統一して成った国だが、旧南側の再分離独立を求める勢力が1994年に武装蜂起、イエメン正規軍と戦争になった。両者の間で、空軍機を使った空爆合戦やスカッドミサイルを打ち合う応酬が行なわれたものの、戦闘は終始北側が優位に立ち、国際的な支援も北側についた。2ヶ月に及ぶ戦闘の後、数万人の死者を出しながら旧南側勢力は制圧された。
統一後に就任した北イエメン出身のアリ・アブドラ・サーレハ大統領(国民全体会議)が、旧北イエメン側に優位な政策を敷いたとして、旧南イエメン出身のアリ・サリム・ビード副大統領派(イエメン社会党)が反発。1993年には、政府が分裂状態に陥っていた。南イエメン側は有望な油田を抱えており、再独立の行動を起こせば国際的な支援を取り付けることができるのではないかと考えていた節がある。実際にサウジアラビアは、南イエメン側を間接的に支援し、国境線でイエメン軍と交戦状態にも陥ったが、本格的な軍事力の行使には至らなかった。
第一次チェチェン紛争(だいいちじチェチェンふんそう)は、1994年から1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシアとの間で発生した紛争。
1991年、ソ連崩壊の直前であるが、チェチェンでは元ソ連軍の将軍であるジョハル・ドゥダエフを大統領に選出。ソ連連邦離脱法を基に、一方的に独立を宣言した(厳密には、連邦離脱法はソ連構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時ロシア共和国内の共和国であったチェチェンには適応されない)。ロシアのエリツィン大統領はこれを認めず、1994年にロシア連邦軍はチェチェンに侵攻する。ロシア連邦軍はその圧倒的な軍事力にもかかわらず、チェチェン人ゲリラによる度重なる攻撃によって山岳地帯の支配ができなかった。ロシア連邦軍が広域に渡って支配権を回復したことで、ロシア連邦大統領のボリス・エリツィンは1995年、一方的に休戦を
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し、軍隊の撤退を始めた。
1996年5月27日、エリツィンはチェチェンの抵抗運動のリーダーたちと初めて会見し、休戦を取り決めた。1997年、ロシア軍は完全に撤退した。
この戦争で推定10万人の市民と、2万人のロシア兵が死亡した。
エチオピア・エリトリア国境紛争(-こっきょうふんそう)とは、アフリカのエチオピア、エリトリア間で行われていた戦争のことである。紛争とあるが、互いの首都を空爆しあうなど戦争と表現しても良いほど事態はエスカレートしていた。両国とも経済規模が小さい貧国であり、身の丈に合わない戦争の継続が地域の破綻を招くとして、開戦以降、国際連合や当時のアフリカ統一機構(OAU)などが積極的に仲介に乗り出している。
エリトリアは1961年から1991年までの
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にわたり、エチオピアからの独立闘争を繰りひろげた。エチオピアの社会主義政権崩壊の結果、1993年にエリトリアは独立を達成し、両国の関係は正常化したが、以降、エリトリアの独自通貨発行や内陸国となったエチオピアによるエリトリア国内の港湾の使用料の交渉が難航したことなどで、両国の関係はふたたび険悪化(背景には、エリトリア側の独立による民族意識の高揚と、エチオピア側が影響力(通貨の流通や港湾の使用)の行使を維持させたい思惑があった)。やがて国境沿いにある都市バドメ周辺の所有をめぐり交戦状態に陥った。当時、バドメ周辺に金鉱脈が発見され、その所有をめぐる紛争が原因というニュースも流れたが定かではない。
東ティモール紛争(ひがし-ふんそう)は、東ティモールで勃発した独立運動と反対勢力の間の紛争。
東ティモールは歴史的背景から、インドネシアからの独立志向が高かったが、1998年にスハルトの独裁政権が倒れ、新政権が東ティモールの独立容認の立場を取ったことから、急速に独立の気運が高まった。8月30日には国連監視下でインドネシア内の高度自治州案の賛否を問う住民投票が行われ、反対多数で独立が決定したが、これを不服とした反対派民兵と一部国軍が独立運動を襲撃した(インドネシア政府の支援があったとされる)。報復合戦によって戦闘が勃発、双方が破壊・殺害しあう泥沼となり、
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ティモールへ逃亡したり、連れ去られる住民が相次いだ。
国家建設のためにPKOが派遣されたが、展開したときには紛争は一段落していた。東ティモールはPKOによって国家建設が進められ、2002年に独立を達成した。
13 - 17世紀にかけてコンゴ王国が栄えたほか、南部にはクバ王国があった。1885年にベルギーの国王、レオポルト2世の私有地「コンゴ自由国」(Etat independant du Congo)とされ、1908年にはベルギー政府に所有権が移され植民地に。1950年代後半からジョゼフ・カサブブのコンゴ人同盟、パトリス・ルムンバのコンゴ国民運動が独立闘争を開始。
1960年6月30日にコンゴ共和国(のちコンゴ民主共和国に改称)としてベルギーから独立。カサブブは大統領、ルムンバは首相に就任。1961年、ルムンバ首相殺害で「コンゴ動乱」が始まった。
1965年11月、モブツ商務・雇用・貿易相がクーデターで実権掌握。1995年までの30年間モブツ大統領の独裁が続いた。
1971年に国名をザイール共和国(Republique du Zaire)に。革命人民運動 (MPR) の一党独裁制を敷いた。1990年4月、民主化要求の高まりを受け議会は11月に複数政党制への道を開く憲法修正案を可決。12月任期2期を満了したモブツ大統領が、3選を禁止した憲法条項を無視し辞任を拒否。
議会は1996年4月、東部のツチ系ムレンゲ人の追放を決議し政府軍が攻撃。バニィヤムレンゲ等の武装組織コンゴ・ザイール解放民主勢力連合 (AFDL) がルワンダ、ウガンダ、ブルンジなどの支援で反撃し、1997年5月にキンシャサを制圧。モブツ政権は崩壊し、AFDLのローラン・カビラ議長が大統領に就任、国名をコンゴ民主共和国とコンゴに戻した。大統領は司法権を除く全権を自身に付与することを発表するなど、強権支配体制を敷いた。
カビラ大統領は、ツチ系が政権を握るルワンダなどの影響力が強まることを恐れ、政権や軍部からツチ系の排除を始めたために、1998年8月に東部を中心として第二次コンゴ戦争に発展。国内のダイヤモンドやコバルトなどの豊富な鉱産資源に関する利権も絡み、反政府勢力コンゴ民主連合 (RCD) を主にウガンダとルワンダが、政府軍を主にジンバブエ、ナミビア、アンゴラが支援。戦闘などで住民20万人以上が死亡し、紛争に伴う食糧・医薬品不足などでさらに150万人が
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したとされる。
政府と介入5ヶ国は1999年7月、ザンビアのルサカで停戦協定に調印(ルサカ合意)。しかしカビラ大統領は国連部隊の自由な展開を拒否し、停戦は事実上無効化した。2001年1月16日、ローラン・カビラ大統領が護衛兵に撃たれ死亡。長男のジョゼフ・カビラが26日に後任大統領に就任。
和平協定に向け、2001年10月15日からエチオピアのアディスアベバで対話が実現。ルワンダが支援するコンゴ民主連合 (RCD)、ウガンダが支援するコンゴ解放運動 (MLC)、そしてRCDから分離したコンゴ民主連合解放運動 (RCD-ML) の主要反政府勢力3組織などが、協議継続などをうたった共同声明に調印した。
2002年2月25日、戦争終結を目指す各派の対話がボツワナのクェット・マシーレ前大統領を調停役として、南アフリカのサンシティで再開されたが決裂。対話は南アフリカのプレトリアで、セネガルのニアセ前首相の仲介で再開され、反政府勢力はRCDとMLCが参加した。12月にプレトリア包括和平合意が成立し、2003年7月、合意に基づき暫定政権が成立した。
しかし政権は国内すべてを掌握しておらず、依然として戦争状態が続いている。民族対立とも相まって東部は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となっている。