■LONG POSITION

2006年12月6日、国連安保理はソマリアへの国際平和維持部隊(8000人規模)派遣と武器禁輸の一部緩和を含んだ国連決議1725を採択したが、12月下旬にはイスラム法廷連合が暫定政府の拠点バイドアに攻勢をかけ、20日には展開していたエチオピア軍との間に戦闘が発生した。バイドアはエチオピアとの国境に近く、ここの陥落はエチオピアにとって危機であった。 12月24日、エチオピアはこれまで認めていなかったソマリア派兵の事実を確認、エチオピア軍は航空機とミサイルにより、法廷連合軍に攻撃を加えた。暫定政府を支持するエチオピアの首相メレス・ゼナウィは、自国の国家主権保全を理由に、法廷連合と「戦争状態」に突入したことを認めたが、対テロ戦争と位置づけ、同時に国連・AU・EUによる和平活動を支持した。その日のうちに、空軍による法廷連合支配都市への空爆が開始され、25日には地上軍およそ1万5000人がモガディシュへ進軍を始めた。26日と27日の国連安保理会議では、12月の議長国カタールが「外国軍隊の即時撤退」決議を提案したが、英米などが反対して採決に至らなかった。またアラブ連盟もエチオピアの軍事活動の即座停止を求め、AUも同調したが、アメリカはエチオピアを支持し、EUも静観の姿勢を採るなど、国連も2つに割れた。 モガディシュを包囲したエチオピア軍と暫定政府軍は、28日に街の北と西から突入、既に1000人以上の死者を出した法廷連合はモガディシュを放棄し、暫定政府は発足以来、初めて首都を制圧した。29日にはゲーディ首相が暫定政府要人として始めて首都入りを果たし、その他の閣僚も次々に首都入りした。2007年1月1日、エチオピア軍と暫定政府軍は、法廷連合が最後の拠点とした沿岸都市キスマユに対して激しい攻撃を加え、法廷連合は南部のケニア国境方面に撤退した。これにより、暫定政府軍は北部のソマリランドやプントランドなどの一部を除き、ソマリア全土を制圧した。後に、この侵攻作戦には米軍特殊部隊がアドバイザーとして参加(12月に現地入り)していたことが公表された。 2007年1月1日、暫定政府は法廷会議に対するくりっく365 宣言を行った。しかし、先のオガデン戦争によって国民の対エチオピア感情は悪く、自前の軍事力が小さい暫定政府は、治安維持や軍事行動をエチオピア軍に頼らなければならないが、駐留が長引けば暫定政府への反発が広がる矛盾を抱えての出発となった。一方のエチオピア政府は、AU展開が進めば2週間程度で撤退することを示唆した。4日にアイディード副首相は、8000人規模の治安部隊創設を示唆し、また国際部隊の早期派遣を要望した。5日にはケニアで国連、AU、アラブ連合、EU、周辺各国の代表者会議が行われ、暫定政府はPKOの派遣と国際復興支援を要請した。また、ゲーディ首相はエチオピア軍が平和維持軍へ編入されることを期待すると共に、6日より国民の武装解除を強制的に実施すると宣言したが、エチオピア軍の駐留に反対する市民のデモが相次ぎ一部が暴徒化、軍や警察と銃撃戦が発生し、死傷者が出た。このような国内混乱を懸念して、フレイザー米国務次官(アフリカ担当)の訪問が無期延期となった。8日にはユスフ大統領もモガディシュ入りした。 7日、暫定政府軍とエチオピア軍は、法廷会議の最後の拠点ラスカンボニの攻撃を開始、12日に制圧し、法廷会議はケニア国境付近の森林へ逃走した。しかし国内には残党が存在しており、9日には武装勢力がエチオピア軍に攻撃を行ったため、エチオピア軍が反撃して交戦となった。ソマリア暫定議会は混乱解消の為、13日に3ヶ月間の戒厳令実施を可決した。無許可デモと武器携帯の禁止およびエチオピア軍駐留継続の根拠となる。戒厳令により、武装勢力7派が武装解除に応じ、19日までに3派がテクニカル70台と迫撃砲200門を政府に引き渡した。一方、同日夜に大統領公邸に迫撃砲弾数発が打ち込まれ、暫定政府軍とエチオピア軍が応戦、銃撃戦となった。犯行は法廷連合の残党によるものと思われる。また同日、エチオピアのメレス首相は国民の反エチオピア感情に配慮する形で軍の撤退を示唆し、代わってAUが平和維持軍9大隊7650人を派遣する事を決定した。しかし、治安の悪化と財源不足のため、参加国・派遣期間などは決定しなかった。24日には国連開発計画の代表団を乗せた旅客機がモガディシュの空港へ着陸した際、迫撃砲で攻撃された。機体と乗客は無事であったが、地上の空港職員1名が死亡した。  2008年8月19日、国連の仲介でソマリア暫定連邦政府とソマリア再解放連盟(旧・イスラム法廷連合)はジブチ合意に署名し、この合意に基づき、エチオピア軍は2009年初頭までに撤退することになった。 アメリカは法廷会議を「アルカーイダに操られた組織」と断定しており、エチオピアの侵攻を一貫して支持し、1月3日には暫定政府を支援するため、アメリカ海軍の艦隊(規模未公表)をソマリア沖に展開させた。8日(米国時間7日)には、1994年に終了したPKO以来初めて、ジブチに展開していた米軍のガンシップAC-130により、アルカーイダ構成員が潜むとしてソマリア南部を攻撃、多数を殺害した。米軍はこの中に1998年に起きた米大使館爆破事件の容疑者が含まれることを公表した。またエチオピア軍も地上から制圧して、多数を拘束した。米軍の行動に対し、9日に国連とEUは不快感を表明した。米空母『アイゼンハワー』部隊もソマリア沖へ展開しているとされ、9日にペルシャ湾で日本タンカー『最上川』と接触事故を起こした原潜『ニューポート・ニューズ』も、アイゼンハワー空母打撃部隊の所属で、ソマリアへの移動の途中であったとされている。米軍の行動に対し、エチオピアのメレス首相は10日に攻撃の抑止を求め、地上での作戦はエチオピアに任せるよう訴えた。米軍は22日にもAC-130による攻撃を行った。 5月31日、法廷会議の残党が北部沿岸のFX に陣地を構築しているのを米駆逐艦が発見、6月1日夜に5インチ砲による射撃で破壊した。 2007年1月30日に閉幕したAU首脳会議で国際平和維持部隊の派遣が決定したが、AU執行部が8000人規模の派遣を加盟53カ国に提案したものの、治安の悪化や財源問題により、応じたのは6カ国のみで、4000人程度の確保にとどまった。2月20日には安保理がAUによる平和維持活動を承認する決議案を全会一致で採択し、合わせてAU加盟国に積極的に兵・物資・装備を提供するよう求めた。 エチオピア軍のモガディシュ進駐以来、武装解除に賛同しない勢力や、法廷会議残党によるテロや迫撃砲攻撃が相次ぎ、早い内から内戦再燃の可能性が示唆されていた。AUによる平和維持軍は結成されたとは言え、3月までにソマリア入りしたのはウガンダ軍1200人のみだった。他国は悪化するソマリアの治安を懸念し、年末までの増派でもウガンダ軍1600人にとどまった。 国際的な足並みが乱れる中、モガディシュを中心に武装勢力が活動を活発化し、暫定政府に対する攻撃が増加した。このため、3月29日から4月1日にかけてエチオピア軍によるモガディシュの掃討作戦が行われ、市街地への空爆を伴う激しい戦闘により、1回の戦闘の死傷者数としては最多である1000人以上の死者と4300人以上の負傷者が発生、エチオピア軍もヘリを撃墜されるなどの被害を出した。  エチオピア軍侵攻から1年を迎える同年12月下旬に、ブルンジ軍がPKO部隊1700人の派遣を発表した。 セネガル共和国(フランス語:Republique du Senegal)、通称セネガル(Senegal)は、西アフリカ、サハラ砂漠西南端に位置する共和制国家。北東にモーリタニア、東にマリ、南東にギニア、南にギニアビサウと国境を接し、ガンビアを三方から囲んでいる。西は大西洋に面する。首都はダカール。 首都ダカールはパリ・ダカール・ラリーの終着点として知られている。 マリ帝国(1240年-1473年)勢力のもと、14世紀 - 16世紀ウォロフ族のジョロフ王国などの勢力が台頭した。 1815年のウィーン会議でフランスの植民地とされ、ダカールなどの都市、ダカール港、サンルイ - ダカール間鉄道などの建設を進めた。1848年、奴隷貿易が廃止された。 1895年にはフランス領西アフリカに編入されダカールがその中心地となった。1904年フランスが全土を支配下に。1926年、サン・テグジュペリがダカール - トゥールーズ間の飛行士に。1958年11月自治国となり、1959年4月にフランス領スーダンの現マリ共和国部分とマリ連邦を結成した。 1960年4月4日マリ連邦としてフランスから独立し、8月20日にはマリ連邦から分離しセネガル共和国として単独国家となった。9月6日セネガル社会党 (PSS) のレオポルド・セダール・サンゴールが初代大統領に就任、親フランスの穏健改革路線で1980年12月31日まで長期政権を維持した。 1981年1月1日アブドゥ・ディウフ首相が第2代大統領に。1982年2月、ガンビアとセネガンビア国家連合を発足させたが、フランス領であったセネガルとイギリス領であったガンビアの体制の違い、主権問題、経済格差などの問題で対立し1989年9月に国家連合を解消した。ディウフ大統領は1983年、1988年、1993年の大統領選で勝利。