■LOCAL

コソボ解放軍の損害については解析が困難である。コソボ解放軍の死者数は5000とする報告もある[61]。コソボ解放軍の兵士の死亡は、軍の退却時に発生することがあることや、遺体が戦場に残され、ユーゴスラビア軍によって集団墓地で焼却されてしまうことも、死者の数を特定することを困難としている。さらに問題を複雑にしているのは、誰がコソボ解放軍の兵士かという問題である。たとえば、ユーゴスラビア軍は、武装したアルバニア人はコソボ解放軍であるとみなしており、武装者が実際にコソボ解放軍に徴用されIDを与えられた兵士であるかは問題としていなかった。このことから、ある人物が、アルバニア人側からは民間人として、セルビア人側からはコソボ解放軍の戦闘員として計算されることも起こる。また、コソボ解放軍の兵士の多くは制服を着ておらず、コソボ解放軍の戦術では、死亡した兵士からは武器などを取り去り、ユーゴスラビア軍によって民間人が殺害されたかのように装うこともあったという。 A Serbian Orthodox church destroyed by Albanians after the war3週間の間に、50万人のアルバニア人難民が故郷に戻った。1999年11月の時点で、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、難民848,100人のうち、808,913人が故郷に戻った。 しかしながら、大規模な暴力によって、20万人のセルビア人がコソボを去ることを余儀なくされた[62]。ロマ(ジプシー)もまたアルバニア人からの迫害によって、コソボを追われた。1999年6月12日以降、少なくとも1000人のセルビア人やロマが、コソボ解放軍の成員や犯罪組織、あるいは個人による民族的憎悪によって、殺害されるか行方不明となった[4]。ユーゴスラビア国際赤十字は、11月までに247,391人の難民を登録している。新たな難民の発生は、NATOの悩みの種となった。NATOはUNMIK傘下で45,000人の平和維持軍を作り上げていた。 マケドニア共和国から帰還した避難民たちは、ミトロヴィツァ / コソヴスカ・ミトロヴィツァの鉛で汚染された難民キャンプに留め置かれた。ポール・ポランスキ(Paul Polansky)による慈善団体によると、鉛汚染によって27人が死亡したとしている。UNMIKはこれを否定し、死亡したのは1人のみであるとした。 アムネスティ・インターナショナルによると、コソボでの平和維持軍の駐留によって、性的搾取を目的とした人身売買が増加したとしている[63][64][65]。 空爆が終わる前に、ユーゴスラビア大統領スロボダン・ミロシェヴィッチは、紛争当時の連邦内相ヴライコ・ストイリコヴィッチ(Vlajko Stojiljkovi?)や連邦副首相ニコラ・シャイノヴィッチ(Nikola ?ainovi?)、CFD 国防相ドラゴリュヴ・オイダニッチ(Dragoljub Ojdani?)、ユーゴスラビア連邦軍参謀総長ネボイシャ・パヴコヴィッチ(Neboj?a Pavkovi?)、セルビア大統領ミラン・ミルティノヴィッチ(Milan Milutinovi?)とともに旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)によって、殺人、強制移住、追放、政治的・人種的・宗教的な迫害を含む、人道に対する罪で訴追された。 2003年10月にはさらに多くが起訴された。このとき起訴を受けたのは、元参謀総長のネボイシャ・パヴコヴィッチ(Neboj?a Pavkovi?)、元司令官のヴラディミル・ラザレヴィッチ(Vladimir Lazarevi?)、元警察官のヴラスティミル・ジョルジェヴィッチ(Vlastimir ?or?evi?)、当時のセルビア公安局長のスレタン・ルキッチ(Sreten Luki?)であった。これらは全て人道に対する罪と戦時国際法への違反によって訴追された。 ICTYはまた、コソボ解放軍の成員らに対しても起訴を行った。起訴を受けたのはファトミル・リマイ(Fatmir Limaj)、ハラディン・バラ(Haradin Bala)、イサク・ムスリウ(Isak Musliu)、アギム・ムルテジ(Agim Murtezi)であり、人道に対する罪で起訴された。これらは2003年の2月17日から2月18日にかけて逮捕された。アギム・ムルテジに対する起訴はその後、人違いとして取り下げられ、またファトミル・リマイは2005年11月30日に全ての容疑について無罪となった。容疑は、1998年の5月から7月にかけてラプシュニク(Lapu?nik / Llapushnik)の強制収容所の護衛であったことに関連する。 戦争犯罪に対する訴追はユーゴスラビア国内でも起こされた。ユーゴスラビア軍の兵士イヴァン・ニコリッチ(Ivan Nikoli?)は2002年にコソボでの2人の市民の殺害に関して有罪と認定された。多数のユーゴスラビア軍の兵士らがユーゴスラビアの軍事法廷で裁判を受けた。 2005年3月、国際裁判所はコソボの首相ラムシュ・ハラディナイをセルビア人に対する戦争犯罪の容疑で訴追した。ハラディナイは3月8日に首相を辞任した。アルバニア人のハラディナイは、コソボ解放軍の部隊を指揮した元指揮官であり、2004年12月にコソボ議会で72票の賛成をうけて首相に就任したばかりであった。ハラディナイは2008年4月、一審で全ての容疑について無罪となった[66] [67]。ICTYの検察局は判決を不服として控訴した。 セルビア政府や多数の国際的な圧力団体は、NATOが紛争中に戦争犯罪をしたと主張している。特に、ベオグラードにあるセルビア公共放送の本社など、軍民共用の施設に対する攻撃に関してこのような見方がもたれている。ICTYはこれらについても調査を命じた[68]。ICTYは、NATOの民間人に対する戦争犯罪について訴追を進める権限がないと宣言した。 2008年、カルラ・デル・ポンテは日経225 を出版した。その中でデル・ポンテは、1999年に紛争が終わった後、コソボのアルバニア人たちは100人から300人のセルビア人やその他の少数民族を殺害し、臓器をコソボからアルバニアに送っていたと主張した[69]。しかし、ICTYの法廷は、デル・ポンテが主張するような嫌疑を支持する確固たる証拠はないとした[70]。 紛争終結以降、コソボは国際連合の監督下におかれた。その間、コソボはその後、政治・軍事の両面で重要な成果を挙げてきた。コソボの地位は2008年まで未確定の状態が続いた。 安全保障理事会決議1244号で規定された、コソボの最終的な地位を決定するための国際的な地位交渉は2006年に開始された。国際連合の元での話し合いは、国連の特使であるマルッティ・アハティサーリの指導の下、2006年2月に開始された。技術的な面での進展は得られたものの、コソボの地位そのものに関するセルビア、コソボ双方の主張は正反対のままであった[71]。2007年2月、アハティサーリは、セルビアとコソボの双方の指導者らに対して、自ら提起した草案を送った。これは国連安全保障理事会の決議の草案の基盤として作成されたものであり、コソボに対して国際的な監督下での独立を提案するものであった。2007年7月までに、草案はアメリカ合衆国、イギリス、その他の安全保障理事会の欧州の理事国からの承認を取り付けたものの、国家の主権に対する侵害にあたるとする懸念を持つロシアの同意を取り付けようと、4度にわたって修正された[72]。くりっく365 は、安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国であり、セルビアとコソボ双方が受け入れ可能なもの以外、あらゆる解決法を支持しないとしている[73]。2008年2月のコソボの一方的な独立宣言によって、草案は無効となった。 2008年2月17日、コソヴォは独立を宣言し[74]、直後に米国や、英国、ドイツなど一部のEU諸国、トルコなどが独立を承認し、日本政府も3月18日に承認した。一方で、セルビアは米国など独立を承認した国から大使を引き上げた。ロシア、ルーマニア、スロヴァキア、キプロス、スペインなどは独立を承認しない方針を明らかにしている。2008年末の時点で、コソボは50を超える国際連合加盟国から独立の承認を得ている一方、独立宣言の後も安全保障理事会の決議の上ではコソボの地位は未確定のままであり、引き続き国際連合の監督下に置かれている。