■LIQUIDITY

しかし、NATOが軍事作戦を指揮するに至った点については、さまざまな政治的立場からの批判が上がっている。NATOの指導者たちは、コソボへの介入で、・・・の武器を用いた「きれいな戦争」を実現したいと考えていた。アメリカ国防総省は、6月2日までに使用された20,000の爆弾およびミサイルのうち99.6%は目標に命中していると主張した。しかしながら、劣化ウランやクラスター爆弾の使用、そして「環境への攻撃」として批判を受けた石油精製所や化学工場への攻撃については強い異論がある。また、紛争の進展の遅れについても批判があった。NATOは小規模な空爆や空中戦から始めるのではなく、最初から大規模な全面攻撃に出るべきであったとの見解も強い。 Post-strike bomb damage assessment photograph of the Kragujevac Armor and Motor Vehicle Plant Crvena Zastava, Serbia攻撃目標の選定についても批判がある。ドナウ川にかかる橋への攻撃は、その後数箇月にわたってドナウ川の水上交通を遮断し、ドナウ川沿いの国々の経済に深刻な影響をもたらした。生産設備も攻撃を受け、多くの町の経済を破壊した。後に、セルビアの反体制派らは、ユーゴスラビア軍が民間の工場を武器生産に使用したと主張した。チャチャクにあるスロボダ(Sloboda)の真空クリーナー工場は戦車の修復にも使われ、クラグイェヴァツにあるザスタバの工場は、自動車とともにカラシニコフ銃を生産していた。しかし、自動車と銃の生産場所はそれぞれ離れた別の建物であった。国有の工場のみが標的とされており、そのため、外国資本主導による民間ベースでの再建まで見据えて空爆の標的が選ばれたのではないかとの疑念を持たれた [33]。私有、あるいは外国資本の生産施設は一切攻撃を受けていなかった。 もっとも批判の強かった空爆対象は、4月23日に行われたセルビアの公共放送の本社への攻撃であろう。この攻撃では少なくとも14人が犠牲となった。NATOはこのセルビア公共放送への攻撃について、ミロシェヴィッチ政権のプロパガンダの道具を破壊するためのものとして正当化した。セルビア国内の反体制派らは、放送局の上層部は攻撃を事前に警告されており、空襲警報が発令されていたにもかかわらず、放送局のスタッフに建物内に留まるよう命じたとして、これを非難した。 ユーゴスラビア国内では、紛争へのNATO介入に対する世論は、強く批判するセルビア人と、強く擁護するアルバニア人に分かれた。しかし、アルバニア人すべてがNATOを全面的に擁護したわけではなく、NATOの攻撃が遅いとしてこれを批判する者もいた。ミロシェヴィッチに対する支持は落ちていったものの、NATOによる空爆によって、セルビア人の間では民族的連帯感が高まった。ミロシェヴィッチは事態を放置することはなかった。多くの反体制派らは、特にジャーナリストのスラヴコ・ツルヴィヤ(Slavko Curuvija)が4月11日に暗殺されてからは、生命の危機に脅かされることとなった。ツルヴィヤの暗殺は、ミロシェヴィッチの秘密警察への批判を高めた。モンテネグロでは、同国大統領ミロ・ジュカノヴィッチがNATOの空爆とセルビアのコソボでの攻撃の双方に反対し、モンテネグロでのミロシェヴィッチの支持者によるクーデターへの恐れを表明した。 ユーゴスラビア周辺の国々の履歴書 はより複雑であった。マケドニア共和国は、旧ユーゴスラビア諸国のうち、モンテネグロ以外では唯一セルビアとの戦争を経験していない唯一の国であった。コソボでのセルビア人とアルバニア人の衝突によって、マケドニア国内で多数派であるマケドニア人と、規模の大きい少数派であるアルバニア人との関係が緊迫化した。マケドニア共和国の政府はミロシェヴィッチの行動を支持しなかったものの、マケドニア国内に流入するアルバニア人難民にも強く共感することはなかった。アルバニアは、紛争がコソボとの国境の両側での不安定化につながるものとして、全面的にNATOの行動を支持した。クロアチア、ルーマニア、ブルガリアはNATO空軍機に対して上空通過権を認めた。ハンガリーは当時、新しくNATOに加盟したばかりであり、攻撃を支持した。アドリア海をはさんで隣接するイタリアでは、大衆世論は反戦に傾いていたものの、政府はNATOに対してイタリアの空軍基地の全面的な使用権を認めた。ギリシャでは、紛争への反対世論は96%に達した[34] 1999年当時、サッカーJリーグの名古屋グランパスエイトに所属していた、ユーゴスラビア代表(当時)のオンラインゲーム が、ゴールを決めた後に、「NATO STOP STRIKE」と書かれたTシャツを見せるパフォーマンスを行った。 紛争に対する批判は、コソボでのジェノサイドを阻止できなかった各方面の指導者たちにも向けられた[35]。アメリカ合衆国の大統領ビル・クリントン政権は、多くのアルバニア人がセルビア人によって殺害されるのを阻止できなかったことについて批判された[36]。クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエンは演説のなかで、「コソボでの虐殺に関する恐ろしい報告や、セルビア人による迫害から命を守るためにコソボを逃れるアルバニア人難民の姿は、この戦争がジェノサイドを阻止するための正義の戦争であることを明確にした」と述べた[37]。CBSの「国家の顔」で、コーエンは「現在、100,000人の従軍可能年齢の男性の行方がわかっていない。彼らは殺害されたかもしれない」と述べた[38]。クリントンも同様の見解を引いて、「すくなくとも100,000人の行方不明者がいる」と述べた[39]。 後に、ユーゴスラビアの仕事 に関してクリントンは、「彼らは、ミロシェヴィッチ氏が命じた事実に直面せざるを得なくなるだろう。彼らがミロシェヴィッチ氏を指導者として認めるかどうか、彼らが数万人の人々の殺害を是認するか否か…」と述べた。同じ記者会見でクリントンはさらに、「意図的で、体系的な民族浄化とジェノサイドのための動きを、NATOは食い止めた」とも述べた[40]。クリントンは、コソボでの出来事をホロコーストと比べた。CNNは、「ユーゴスラビアでのNATO軍の戦闘への支持を得るために、火曜日の記者会見でクリントン大統領が行った、セルビアのコソボでの民族浄化へを第二次世界大戦でのユダヤ人に対するジェノサイドに類するものとする非難によって、外交による平和的解決への道は一段と難しいものとなった。」と報じた[41]。クリントン政権の国務長官もまた、ユーゴスラビア軍がジェノサイドに加担していると主張した。ニューヨーク・タイムズ紙は、「政府は、ユーゴスラビア軍によるジェノサイドの証拠には、大規模な恐ろしい犯罪行為に関するものが含まれている。国務省による言葉は、これまででもっとも強い、ミロシェヴィッチ大統領への批判であった」と報じた[42]。国務省はまた、それまでで最大数のアルバニア人の死者数を挙げた。ニューヨーク・タイムズ紙が報じたところによると、国務省は、アルバニア人の死者および行方不明者の数は500,000人に上るとした[43]。 国際連合の憲章は、国連安全保障理事会での決議を必要とする一部の例外を除いて、他の独立国への軍事侵攻を禁じている。この問題はロシアによって、国連安全保障理事会に持ち込まれた。その決議案では、特に、「このような一方的な武力行使は、国際連合憲章への重大な違反にあたる」とした。中国、ナミビア、ロシアが決議案に賛成、その他の国々は反対し、決議案は否決された[44]。 1999年4月29日、ユーゴスラビアはハーグにある国際刑事裁判所でNATO加盟諸国(ベルギー、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア、カナダ、オランダ、ポルトガル、スペイン、アメリカ合衆国)を相手に訴えを起こした。裁判所は、紛争当時、ユーゴスラビアがネットキャッシング の加盟国ではないために、この訴えについての判断を避けた。 西側諸国では、NATOによる攻撃に反対する意見は主にリベラル右派から起こり、またほとんどの極左主義者も攻撃に反対した。イギリスでは、元外務英連邦大臣のマルコム・リフキンド(Malcolm Rifkind)や、元財務大臣のノーマン・レイモント(Norman Lamont)、ジャーナリストのピーター・ヒッチェンズ(Peter Hitchens)、サイモン・ヘッファー(Simon Heffer)などの有力な右派の人物が紛争に反対した。また、The Morning Star紙によると、左翼の議員トニー・ベン(Tony Benn)、アラン・シンプソン(Alan Simpson)らが紛争に反対していることを報じた。しかし、レーニン主義の党派である緑の英国共産党(Communist Party of Great Britain (Provisional Central Committee))は、NATOによる攻撃をアメリカ帝国主義とみなしたものの、コソボ解放軍には同調し、コソボのセルビアからの完全分離を支持した。 紛争が終わった1999年6月11日、紛争はコソボに破壊と混乱を残し、ユーゴスラビアは将来への不安に直面することとなった。