■LIMIT ORDER

NATO軍の作戦は次第に変化し、地上のユーゴスラビア軍の、戦車や大砲よりも大きいものを直接攻撃すること、並びに戦略爆撃を加えることに重点が置かれるようになった。この活動はしかし、政治によって強く束縛されたものであった。その逗子 不動産 は、NATOの加盟19箇国が同意できるものでなければならなかあ。モンテネグロはNATOにより何度か空爆を受けたものの、モンテネグロの政治的指導者で反ミロシェヴィッチ派のミロ・ジュカノヴィッチの政治的不安定な状況を支援するため、まもなくモンテネグロへの攻撃は中止された。セルビアの民間・軍事双方によって用いられている施設は「デュアル=ユース・ターゲット」(dual-use target)と呼ばれ、攻撃対象となった。その中には、ドナウ川にかけられた橋や、工場、電力発電所、通信施設、そして、ミロシェヴィッチの妻・ミリャナ・マルコヴィッチが党首を務めるユーゴスラビア左翼連合(Yugoslav Left)の本部、セルビア国営放送の塔なども含まれていた。これらへの攻撃の一部は、国際法、とくにジュネーヴ条約に違反するのではないかとの見方もされた。NATOはしかし、これらの施設がユーゴスラビアの軍事を利するものであるとし、これらへの攻撃が合法であるとした。 5月のはじめには、NATOの航空機が、ユーゴスラビア軍の輸送車隊と見誤ってアルバニア人難民の輸送車隊を攻撃し、50人ほどの死者を出した。NATOは5日後に誤りを認めたものの、セルビア人らは難民への攻撃を意図的なものであるとして非難した。5月7日、NATOはベオグラードの武蔵野タワーズ 人民共和国大使館を空爆し、3人の中国のジャーナリストを殺害した[15]。これによって中国の世論は沸騰した。NATOは、ユーゴスラビアの施設への攻撃であったと主張した。アメリカ合衆国とNATOは後に誤りを認めて謝罪し、CIAによる地図が古かったことによる誤爆であったとした。この見解は、イギリスの新聞「オブザーバー」や、デンマークの新聞「Politiken」から疑問が持たれた[29]。それによるとNATOは、中華人民共和国の大使館が、湘南 不動産 の通信信号の中継に使われているために、意図的に大使館を攻撃したのではないかと主張された。この空爆によって、NATOと中華人民共和国との間で関係が悪化し、北京にある西側諸国の大使館の周辺では攻撃的なデモが起こった。 また、コソボのドゥブラヴァ(Dubrava)収容所では、NATOによる空爆によって85人の死者が出たと。ヒューマン・ライツ・ウォッチのコソボでの調査によると、5月21日に18人の囚人がNATOの空爆によって死亡し、また3日前の5月19日には3人の囚人と1人の守衛が死亡したとされた。 4月のはじめの時点において、衝突は終結には程遠いものと見られ、NATO諸国は陸上での作戦、つまりコソボへの進攻を真剣に考えなければならなかった。そして、コソボへの進攻をするならば、早急に準備する必要があった。冬が訪れる前に準備を整えなければならず、その際に予想される、ギリシャやアルバニアの港から、アルバニア北部やマケドニア共和国を経由してコソボに陸路で侵入する経路を確保するためには、するべきことが山積していた。アメリカ合衆国の大統領ビル・クリントンは、米軍によるコソボ進攻を究極の選択と考えていた。代わりにクリントンは、セルビア人の政府機能を弱体化させるため、CIAがコソボ解放軍を訓練することを決定した。[30]。同時に、フィンランドとロシアによるミロシェヴィッチ説得交渉が続けられた。ミロシェヴィッチは最終的に、NATOがコソボ紛争の解決に対して本気であり、一方的な解決をも辞さない姿勢であることを理解し、また反NATOの強い言辞を並べるロシアには、現実的にはセルビアを守る力がないことを理解した。微修正を加えた後、ミロシェヴィッチはフィンランド、ロシアの仲介による条件を受け入れ、NATO関与による国際連合主導でのコソボの平和維持軍の駐留に同意した。 ミロシェヴィッチがKFORの条件を受け入れた後の6月12日、KFORはコソボへの進駐を開始した。KFORはNATOの軍であり、コソボでの戦闘を指揮するために準備されていたものの、平和維持活動に従事することになった。KFORは、イギリス軍の陸軍中将マイク・ジャクソン(Mike Jackson)の指揮の下、連合軍緊急対応軍団(Allied Rapid Reaction Corps)を司令部としていた。KFORは各国の軍によって構成された。イギリス軍(第4装甲旅団と第5空輸旅団からなる旅団)、フランス軍、ドイツ軍は西から、イタリア軍やアメリカ軍などそのほかは南からコソボに入境した。この時のアメリカ軍の働きは初期介入部隊(Initial Entry Force)と呼ばれ、第1装甲師団に率いられた。その配下に置かれたのはドイツのバウムホルダー(Baumholder)から来たTF 1-35装甲車、アメリカのフォートブラッグ(Fort Bragg)から来た第2大隊、第505パラシュート歩兵連隊、ドイツのシュヴァインフルト(Schweinfurt)から来た第1大隊、第26歩兵連隊、エコー小隊、第4機甲連隊である。アメリカ軍の初期介入部隊は、後のボンドスティール基地(Camp Bondsteel)に近いフェリザイ / ウロシェヴァツ(Ferizaj / Uro?evac)、およびモンタイス基地(Camp Monteith)に近いジラン / グニラネの両地域の占領を実現した。初期介入部隊は4箇月にわたってここに留まり、コソボ南西部セクターのマンスリーマンション 回復にあたった。アメリカの初期介入部隊は地元のアルバニア人たちから歓声を浴び、花を投げて迎えられた。その間、KFORの兵士たちはコソボ各地の町や村に順次入っていった。抵抗を受けることは無かったものの、事故によって初期介入部隊のアメリカ軍兵士3名が死亡した[31]。 KFORの津田沼一戸建て に引き続いて、ロシアからの平和維持軍の関与が始まった。彼らの関与は、コソボのNATO軍に緊張を与える挑発的なものであった。ロシアはコソボで独自のセクターを担うことを希望したが、NATOの指揮下での活動しかできないことに対して失望するのみであった。NATOとの事前の調整なしに、ロシア軍はボスニアからコソボ入りし、プリシュティナの空港を掌握した。さらに、2000年6月には、ロシアとセルビアの間での武器売買が明らかになり、ロシア軍の不動産担保ローン 警察署や検問所に対する報復、爆破が起こった。 ロシア軍の平和維持活動を武蔵野マンション するため、前哨砲台がエコー中隊1/161野砲隊によってプレシェヴォ渓谷の高所に設けられた。2/3野砲団、第1装甲師団の支援の下、ロシア軍は無事に展開し、対砲迫レーダを運用することができた。ロシア軍の展開するセクターやプレシェヴォ渓谷では、ロシア軍の活動を、NATOが間近から見ることができた。最終的に、ロシアとの間で交渉が持たれ、ロシア軍はKFORの一部を構成するもののNATOの指揮系統の外で活動することが認められた[32]。 NATOによるユーゴスラビア空爆の正当性は、大きく議論の的となった。NATOは国際連合安全保障理事会による裏づけのないまま攻撃を行った。これは、ユーゴスラビアと親しい関係にある常任理事国の中華人民共和国やロシアの反対による。ロシアはユーゴスラビアに対する軍事行動を正当化するような決議には拒否権を行使するとしていた。NATOは、国連安全保障理事会による同意のないままでの軍事行動を、「国際的な人道危機」を理由に正当化しようとした。また、NATOの憲章では、NATOは加盟国の防衛のための組織であるとされていたにもかかわらず、今回の場合はNATO加盟国に直接の脅威を与えないNATO非加盟国に対する攻撃を行ったことも、批判の対象となった。NATOは、バルカン半島の不安定はNATO加盟国への直接の脅威であると主張し、そのためこの軍事作戦はNATOの憲章上、認められるものであるとした。このときバルカン半島の不安定によって直接の脅威を受ける国はギリシャであった。 多くの西側諸国の政治家たちは、NATOによる作戦はアメリカによる侵略、帝国主義であるとみなし、加盟国の安全保障の利益と一致しないとして批判した。ノーム・チョムスキーやエドワード・サイード、ジャスティン・レイモンド、タリク・アリなどの古参の反戦活動家らによる反戦活動も目立った。しかし、イラク戦争に対する反戦運動と比べると、コソボ紛争介入に対するものは多くの支持を集めることはなかった。テレビに映し出されるコソボ難民たちの姿は、NATOの活動を単純化し、また西側諸国による紛争介入の大きな動機であった。このような中で、コソボ解放軍による蛮行は矮小化されていた。また、イラク戦争時と比べると、介入に踏み切った国々の指導者たちの顔ぶれも大きく異なっていた。このときの各国の指導者たちの多くは中道左派、あるいは穏健なリベラル主義の政治家たちであった。主だった者として、アメリカの大統領はビル・クリントン、イギリスの首相はトニー・ブレア、カナダの首相はジャン・クレティエン、ドイツの首相はゲアハルト・シュレーダー、イタリアの首相はマッシモ・ダレマであった。反戦活動家たちの多くは、リベラル右派、極左、セルビア系移民、そのほか人道主義団体の支援を受けた各種の左翼主義者たちであった。ベオグラードに対するドイツの攻撃(20世紀で3度目のことである)は、オスカー・フォンテーヌが連邦金融大臣やドイツ社会民主党(SPD)議長の地位を退く理由のひとつであった。