1999年の1月から3月にかけての紛争の進行によって、都市部での危険度は増し、爆破や殺人などが多発した。ランブイエ(Rambouillet)交渉が2月に行われている間も攻撃は続けられ、コソボ査察合意はは3月には破綻した。道路上での殺害は増加し、軍事衝突が頻発した。他の地域に加え、2月にはヴシュトリ / ヴチトルン(Vushtrri / Vu?itrn)で、3月にはこれまで衝突のなかったカチャニク(Kacanik / Ka?anik)でも衝突が起こった。
Column of Yugoslav army vehicles. In front are two UAZ-469 jeeps, in middle is M53/59 Praga, and on the end is TAM-150 truckコソボ解放軍による攻撃とセルビア側の反撃は1998年から1999年にかけての冬の間中つづけられ、1999年1月15日にはラチャクの虐殺(en)が引き起こされた。事件は直ちに(調査が始められるより前に)虐殺事件として西側諸国や国際連合安全保障理事会から非難された。このことは、ミロシェヴィッチと彼の政権の首脳らを戦争犯罪者とみなす基礎となった。テレビカメラは、殺害されたアルバニア人たちの遺体のそばを歩くアメリカ合衆国の外交官ウィリアム・ウォーカー(William Walker)を映し出した。ウォーカーが記者会見を開き、一般市民に対するセルビアの戦争犯罪行為について明らかにしたと述べた([24])。この虐殺が、戦争の大きな転換点となった。NATOは、NATOの支援の下で平和維持のための武力を投入することのみが、問題を解決する唯一の手段であると断じた。
コンタクト・グループは、「交渉不可能な要素」をまとめあげた。これは"Status Quo Plus"として知られ、コソボをセルビアの枠内で1990年以前の自治水準に戻し、さらに民主主義と国際組織による監督を導入するというものであった。コンタクト・グループはまた、1999年2月にも和平交渉を開き、パリ郊外のランブイエ城(Chateau de Rambouillet)にて交渉が持たれた。
ランブイエ交渉は2月6日にはじめられ、NATO事務総長のハビエル・ソラナが両サイドと仲介交渉をおこなった[15]。彼らは2月19日に交渉をまとめる意向であった。セルビア側の代表者はセルビア大統領ミラン・ミルティノヴィッチであり、ミロシェヴィッチ自身はベオグラードに留まった。これは、ミロシェヴィッチ自身が直接交渉に臨んでの、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を終結させたデイトン合意のときとは対照的であった。このときは、ミロシェヴィッチ自らが交渉に望んだ。ミロシェヴィッチの不在は、交渉に関わらず実際の決定はミロシェヴィッチがベオグラードで行っていることを示すものとみなされ、セルビア国内、国際社会双方からの非難を受けた。コソボのセルビア正教会の司教アルテニイェ(Artemije)は自らランブイエへ出向き、交渉は代表者を欠いていると抗議した。
歴史的根拠に関する交渉の初期段階には成功した。具体的には、コンタクト・グループの共同議長による1999年2月23日の声明では、交渉では「民主的な共同体による自由で公正な選挙、公平な法体系を含む、コソボの自治に関して合意が得られた」としている。さらに、「政治的枠組みは定められた」とし、「合意文書の内容を定める」ことをを終えるための更なる作業が残されており、残されたものの中には「コソボにおいて招致された国際的な文民と軍のプレゼンス」が含まれていた。しかし翌月の間、アメリカの外交官ルービン(Rubin)とオルブライトの影響を受けたNATOによって、軍のプレセンスは「招致された」ものではなく「強制する」べきであるとした。NATOのコソボ解放軍への傾倒は、BBCテレビの番組「Moral Combat: NATO at War」にて特集された[25]。実際には、NATOの軍事委員会の議長である将軍クラウス・ノイマンの発言では、「ウォーカー大使はNorth Atlantic Councilにて、停戦の破棄の大部分はコソボ解放軍によるものであるとしている」とされた。
1999年3月18日、アルバニア人、アメリカ合衆国、イギリスの代表者らはランブイエ合意に署名したが、セルビアおよびロシアは署名を拒否した。合意案では、次のことを求めていた。
コソボをユーゴスラビア枠内の自治州としてNATOが統治する
3万人のNATOの兵士がコソボの
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維持にあたる
NATO兵士によるコソボを含むユーゴスラビア領内への無制限の通行の権利
NATOとその人員に対するユーゴスラビア法の適用除外
アメリカ合衆国およびイギリスの代表者らは、この合意案はセルビア側が受け入れることのできないものであると考えていた[15]。これらの後半の要求
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はボスニア・ヘルツェゴビナの平和安定化部隊に対して適用されたものと同様であった。合意案はアルバニア人側の要求を完全には満たしていなかったものの、合意案はセルビア側にとっては十分に過激なものであり、これに対してセルビア側は合意案の大幅な変更を求め、ロシアも合意案は受け入れ不可能であるとした。
ランブイエ合意の失敗以降、事態は急速に進行した。NATOによる空爆が始まる1週間前、西側諸国のほとんどのジャーナリストが滞在しているベオグラードのハイアットホテルに、アルカンことジェリコ・ラジュナトジッチが現れ、セルビアを去るように求めた。[26]。
欧州安全保障協力機構(OSCE)の国際監視団は3月22日、NATOによる空爆が予見され、監視団の安全を保障できないとして、監視団を撤退させた。3月23日、セルビア議会はコソボの自治を認め[27]、ランブイエ合意の非軍事部分を受け入れることを決定した。しかし、ランブイエ合意の軍事部分、より厳密には「NATOによるコソボ占領統治」の様相を呈している条項Bの受け入れには反対した[28]。合意案は全てにおいて「欺瞞」であるとし、その理由として合意案の軍事部分は交渉の最終段階になって初めて議題に上がり、十分に交渉する時間も与えられず、またその交渉相手は「分離主義者のテロリストの代表者」であり、ユーゴスラビア連邦共和国の代表者と
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会わず、直接交渉することを交渉中一貫して拒否していたとして激しく非難した。その翌日の3月24日、NATOはセルビアへの空爆を始めた。
A Tomahawk cruise missile launches from the aft missile deck of the USS Gonzalez on March 31, 1999
A U.S. F-117 Nighthawk taxis to the runway before taking off from Aviano Air Base, Italy, on March 24, 1999
Post-strike bomb damage assessment photograph of the
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Mitrovica Ordnance Storage Depot, SerbiaNATOによるセルビア空爆は、1999年の3月24日から6月11日まで続き、最大で1千機の航空機が、主にイタリアの基地から作戦に参加し、アドリア海などに展開された。巡航ミサイル・トマホークもまた大規模に用いられ、航空機や戦艦、潜水艦などから発射された。NATOの全ての加盟国が作戦に一定の関与をした。セルビアの歴史的な友邦であり、戦争対して強い反対世論のあったギリシャも例外ではなかった。10週間にわたる衝突の中で、NATOの航空機による出撃は38,000回を超えた。ドイツ空軍は、第二次世界大戦後で初めて戦闘に参加した。
NATOによって目標と定められたのは、NATOのスポークスマンによると、コソボからセルビア人勢力を一掃し、平和維持軍を置き、難民を帰還させることであった。これは、ユーゴスラビア軍がコソボを去り、国際的な平和維持軍に置き換えられ、そして非難しているアルバニア人がコソボに帰還することを意味していた。作戦は初期の頃には、ユーゴスラビア空軍の防衛力を削ぎ、重要な戦略目標を押さえることにあった。これは、作戦初期においては十分な成功を収めることができなかった。それは、主に悪天候によって、ユーゴスラビア軍が容易に隠れられることによるものであった。NATOは、ミロシェヴィッチによる抵抗の意思を過小評価していた。ブリュッセルでは、大半が作戦は数日のうちに終わると予想していた。初期の爆撃は軽度に留まり、1991年のバグダードへの集中的な攻撃と比べれば、ほぼ誰もいないような場所への攻撃が加えられるのみであった。地上では、セルビア人による民族浄化作戦は激化し、空爆が始まってから1週間の間に300,000人のアルバニア人が隣接するアルバニアやマケドニア共和国に去り、そのほかにも多くがコソボ域内で強制移動された。4月の時点で、国際連合は、アルバニア人を中心に85万人が故郷を離れたと報告している。