この時、セルビアではセルビア社会党とセルビア急進党を中心とした新しい政権が発足した。民族主義者のヴォイスラヴ・シェシェリが副首相となった。これによって、セルビアと西側諸国との軋轢はいっそう激しくなった。
4月上旬、セルビアは、コソボ問題に関する外国の干渉問題について、
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を実施した。セルビアの有権者らは、この国内問題に対する外国の干渉を明確に拒絶した。
その間、コソボ解放軍はデチャン / デチャニ(Decan / De?ani)周辺の大半の地域を制圧し、グロジャン / グロジャネ (Gllogjan / Glo?ane)の村の周辺を進攻した。1998年5月31日、ユーゴスラビア軍とセルビア内務省の警察は、コソボ解放軍との前線を突破するための作戦に入った。この作戦は数日後に終わり、その中では捕虜の即決殺害や市民の殺害があったとされている。これによって西側諸国からの空爆を招くことになった。
この間、ユーゴスラビアの大統領スロボダン・ミロシェヴィッチはロシアのボリス・イェリツィンとの間で、NATOによる攻撃的行動を中止させ、セルビアではなくユーゴスラビアとの話し合いを望むアルバニア人側と交渉を持つことで合意に達した。実際には、ミロシェヴィッチとイブラヒム・ルゴヴァとの間で行われた会談は、5月15日にベオグラードでのたった1回のみであった。リチャード・ホルブルック(Richard Holbrooke)は、交渉が行われるだろうと発表した2日後のことである。1箇月後、ホルブルックはベオグラードを訪れてミロシェヴィッチに対して「要求に従わなければ、あなたの国に残された全てが破壊されるだろう」と脅迫した後、5月から6月にかけての作戦行動の跡を見に国境地帯を訪れた。その場所で、ホルブルックがコソボ解放軍とともに写真に写っている。これらの写真の公表は、コソボ解放軍とその支持者、共鳴者らに対して、あるいは広く一般の人々の目に、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を支持していることを示す明確なシグナルとなった。
イェリツィンとの合意では、ミロシェヴィッチは国際的な代表者らにコソボ・メトヒヤでの活動を容認することになっていた[15]。これはコソボ外交監視団(Kosovo Diplomatic Observer Mission)と呼ばれ、7月初旬から活動を開始した。アメリカ合衆国の政府はこの合意の一部を歓迎したものの、双方への停戦の呼びかけを批判した。むしろ、アメリカ合衆国はセルビア、ユーゴスラビア側が「テロリスト活動の中止とは関係なく、無条件で停戦すべき」であるとした[15]。
6月から7月にかけて、コソボ解放軍はその優位を保ち続けた。コソボ解放軍はペヤ / ペーチ、ジャコヴァ / ジャコヴィツァを包囲し、ラホヴェツ / オラホヴァツの北のマリシェヴァ / マリシェヴォ(Malisheva / Mali?evo)の町にて臨時首都を設立した。コソボ解放軍はバラツェヴェツ(Belacevec)炭鉱を攻撃して6月末に占領し、地域のエネルギー供給を脅かすことに成功した。
7月中旬にコソボ解放軍がラホヴェツ / オラホヴァツを制圧すると、情勢は一転した。1998年7月17日、ラホヴェツ / オラホヴァツに近接した2つの村レティムリェ(Retimlije)とオプテルシャ(Opteru?a)にて、全てのセルビア人男性が拉致され、後に遺体で発見された。これらほど組織化されてはいないものの、同様の事例はラホヴェツ / オラホヴァツや、より大きなセルビア人の村ホチャ・エ・マヅェ / ヴェリカ・ホチャ(Hoca e Madhe / Velika ho?a)でも発生した。ラホヴェツ / オラホヴァツから5キロメートルにあるゾツィステ(Zociste)の正教会の修道院は、聖人コスマスとダミアノス(Kosmas and Damianos)のレリーフが有名であったが、この修道院も地元のアルバニア人によって襲撃され、略奪され、修道士らはコソボ解放軍の収容所に送られ、無人となった間に、修道院の聖堂をはじめすべての建物は爆破され、消失した。これがきっかけとなり、セルビア人とユーゴスラビアによる攻撃が始まり、8月初旬まで続いた。
コソボ解放軍による新しい攻撃は8月中旬に、ユーゴスラビア軍によるコソボ・メトヒヤ南西部のプリシュティナ=ペヤ道路の南で行われた攻撃に反応して始められた。この攻撃によってクレツカ(Klecka)は8月23日にコソボ
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に制圧された。この場所はコソボ解放軍による死体焼却場犠牲者として使われ、その犠牲者らが見つかった。9月1日には、コソボ解放軍はプリズレン周辺で攻勢をかけ、ユーゴスラビア軍はその対処にあたった。ペヤ / ペーチ周辺のメトヒヤ地域において行われた別の攻撃は大きな非難を呼び、各国の政府や国際的な機関は、追放された人々の大規模な一行が攻撃を受けた可能性を危惧した。これに引き続いてドニイ・ラティス(Donji Ratis)が陥落した。同地では、コソボ解放軍が集団死体遺棄現場を築いており、この場所からは行方不明になっていたセルビア人やそのほかのコソボの市民ら60人の遺体が発見されている。
9月中旬のはじめごろ、コソボ解放軍による戦闘がはじめてコソボ北部のポドゥイェヴァ / ポドゥイェヴォ(Podujeva / Podujevo)で報じられた。最終的に9月の末には、コソボ解放軍をコソボ北部、中部、そしてドレニツァ渓谷そのものから一掃するための作戦が行われた。この間、西側諸国からセルビアに対してさまざまな脅迫がなされたものの、それらはボスニア・ヘルツェゴビナで実施される選挙のために中断された。西側諸国はセルビア急進党やセルビア民主党が選挙で勝利することを嫌い、セルビアへの圧力を弱めたのである。しかしながら、ボスニア・ヘルツェゴビナでの選挙が終わると、再びセルビアに対する脅迫を強化させた。しかし、それらは決定的とはならなかった。9月28日、コソボ外交監視団が、アブリ・エ・エペルメ / ゴルニェ・オブリニェ(Abri e Eperme / Gornje Obrinje)の村の外で、ある家族の切断された遺体を発見した。そこから見つかった血まみれの人形は衝撃的な映像として発信され、参戦への大きな理由となった。
このほかにも、参戦の有力な動機となった事実として、推計250,000人のアルバニア人が家を追われ、30,000人は森の中に隠れており、寒さから身を守る十分な服も住む場所もなく、季節は冬へと向かっていた。
この間、マケドニア共和国に駐在するアメリカ合衆国の大使、クリストファー・ヒルは、ルゴヴァ率いるアルバニア人側の代表者と、セルビア、ユーゴスラビアの当局との間でシャトル外交を展開していた。このときの交渉こそが、NATOがコソボ占領の計画を策定している間に、和平合意に盛り込まれるべき内容を形作ることとなった。
この2週間の間、
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に対する圧力はさらに強められ、NATOにはついに戦時編成命令が出されるに至った。空爆のためのあらゆる準備が整えられ、リチャート・ホルブルックはベオグラードへ行き、NATOによる圧力を背景としてミロシェヴィッチとの間での合意を模索した。ホルブルックに同行したマイケル・ショートは、ベオグラードを破壊すると脅した。長く辛い交渉の末に、1998年10月12日にはコソボ査察合意が結ばれた。
公式には、国際社会は戦闘の終結を求めていた。国際社会は特に、セルビア側に対してコソボ解放軍への攻撃を中止するよう求めていた(コソボ解放軍による攻撃には特に触れられることはなかった)[15]。また、コソボ解放軍に対しては、その独立要求を取り下げるように求めた。さらに、ミロシェヴィッチに対しては、コソボ全域でのNATOによる平和維持部隊の活動を認めるように要求していた。彼らによる交渉の中で、クリストファー・ヒルに対して、和平プロセスを進め、和平合意を受諾することを認めた。1998年10月25日、停戦が取り付けられた。合意ではコソボ査察使節団の設置が認められたコソボ査察使節団は欧州安全保障協力機構(OSCE)による非武装の和平監視団であった。しかしながら、彼らは確実に、初期のころから不十分なものであった。そのため、彼らは"clockwork orange"と通称された。それは、鮮やかに色付けされた自動車に由来する(英語では"clockwork orange"とは
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なものという意味である)。1998年12月にコソボ解放軍が、戦略的に重要なプリシュティナ=ポドゥイェヴォ幹線道路を見渡すバンカーを占領したことにより、停戦は数週間のうちに破棄され、戦闘が再開された。これは、コソボ解放軍がペヤ / ペーチのカフェを襲撃したパンダ・バー虐殺(Panda Bar Massacre)から程なくしてのことであった。虐殺の2日後、コソボ解放軍はフシェ・コソヴァ / コソヴォ・ポリェ(Fushe Kosova / Kosovo Polje)の市長を暗殺した。