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ルゴヴァは非暴力主義に立ち平和的独立を目指したが、セルビア当局は独立を認めなかった。しかしクロアチアやボスニアなどの紛争を抱えるためにコソボに対する対処を十分にとることができなかった。1991年6月以降、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していたスロベニア、クロアチア、マケドニア共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナが次々に独立し、残されたセルビアとモンテネグロが新国家ユーゴスラビア連邦共和国を結成する一方で、「M&A 共和国」は国際社会からも無視され、1995年のボスニア紛争終結の和平会議でも顧みられることはなかった[15]。 ルゴヴァの受動的抵抗の方針によって、1990年代前半のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで独立戦争があった間、平穏に保たれていた。しかしながら、コソボ解放軍の登場に見られるように、この平穏はアルバニア人たちの間に広がる大きな不満と引き換えのものであった[15]。1990年代半ば、ルゴヴァは国際連合に対してコソボでの平和維持活動を求めた。1997年、ミロシェヴィッチはユーゴスラビア連邦共和国の大統領に選出された(ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって1992年4月に発足した新しい連邦である)。 セルビアによる抑圧が続くにつれ、住宅ローン 人たちの多くが過激化し、その一部は武力闘争のみが状況を打開し得ると考えるようになった[15]。1996年4月22日、セルビア治安部隊の隊員に対する攻撃が同時多発的にコソボの異なる地域でそれぞれ発生した。コソボ解放軍の性質について、初期の頃は謎に包まれていた。実際には、コソボ解放軍は小規模で、氏族を基盤とし、組織化の十分でない急進的アルバニア人の集団に過ぎず、その多くはコソボ西部のドレニツァ(Drenica)地方の出身であった。この時点でのコソボ解放軍は、地元の農民や追放者、失業者らであったと見られる。 コソボ解放軍は、コソボ国外に離散したアルバニア人ディアスポラから資金援助を受けていたと考えられている[16]。そして、アルバニア人による麻薬取引の拠点はヨーロッパ各地に作られた[17]。1997年初期、アルバニアでは、ねずみ講破綻に伴うアルバニア暴動とサリ・ベリシャの失脚の中、無秩序状態となっていた。軍の武器庫から武器が犯罪集団の手へと渡り、その多くが後にコソボ西部へと持ち込まれ、コソボ解放軍の装備を大幅に強化した。ブヤル・ブコシ(Bujar Bukoshi)はスイスのチューリヒに置かれた亡命政府の大統領で、ブコシはコソボ共和国軍(en、Forcat e Armatosura te Republikes se Kosoves; FARK)と呼ばれる組織を設立した。 多くのアルバニア人たちは、コソボ解放軍を正当な解放闘争者とみていたが、ユーゴスラビア政府からは政府や市民を攻撃するテロリストと呼ばれた[15]。 1998年、アメリカ合衆国の国務省はコソボ解放軍をテロリストに指定した[17]。1999年、アメリカ合衆国上院の共和党政策委員会は、ビル・クリントンの政治がコソボ解放軍と「実質的に同盟関係にある」ことを指摘した。 「信頼できる複数の非公式の情報源によると(…)、コソボ解放軍は大規模なアルバニア人犯罪ネットワークに深く関与し(…)、イスラム主義のイデオロギーに動かされるテロリスト組織であり、イランやウサーマ・ビン=ラーディンからの援助を受け(…)」[18] 2000年、BBCの記事で、NATOによる戦いでは、アメリカ合衆国がコソボ解放軍を「テロリスト」と規定しつつも、この時コソボ解放軍と関係を持つことを模索していたと指摘した。[19] アメリカ合衆国の使節ロバート・ジェルバード(Robert Gelbard)はコソボ解放軍をテロリストと呼んだ[20]。批判に対してジェルバードは下院外交委員会に対して、「コソボ解放軍はテロリスト活動を実行しているものの、アメリカ合衆国政府によって法的にテロリスト組織と認定されているわけではない」、と明らかにした。[18]。1998年7月、ジェルバードは、コソボ解放軍の政治的指導者を名乗る2人と面会した[20] 。 アメリカ合衆国やその他の国々の中には、コソボ解放軍に資金や武器が流入するのを食い止めることに対して積極的ではなかったと指摘されている。コソボ紛争をはじめとする一連の問題が起きた旧ユーゴスラビア地域を、アメリカ合衆国は「消費者金融 の外壁」の中においていた。制裁をとめることを目的としていたデイトン合意が結ばれた後もこれは維持され続けた。アメリカ合衆国のビル・クリントン政権は、デイトン合意によって、ユーゴスラビアはコソボに関してルゴヴァと話し合うことができるようになったと主張した。 コソボの危機的状況は1997年12月に上昇した。ボスニア・ヘルツェゴビナ問題を監督する和平履行評議会の会合がボンで開かれた際に各国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表に対して、選挙で選ばれた指導者を退ける権利を含む強大な権限を与えることに同意した。同じ時期に、西側各国の外交官らはコソボについても話し合うことを企図し、ユーゴスラビアおよびセルビアはコソボのアルバニア人の要求に対して責任があるとした。これは、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題について話し合うコタンクト・グループ諸国が、ボスニア・ヘルツェゴビナ問題は解決局面に入ったという認識と、セルビアに対するコソボ問題解決の求めに対するものであった。 コソボ解放軍による攻撃はこのCFD から激化し、ドレニツァ渓谷地帯に集中し、アデム・ヤシャリ(Adem Jashari)がその中心的存在としていた。ロバート・ジェルバードがコソボ解放軍をテロリストと呼んでから数日後、リコシャン / リコシャネ({Likoshan / Liko?ane)地域でのコソボ解放軍の攻撃に対してセルビア警察が応じ、コソボ解放軍の兵士らをチレズ / ツィレズ(Qirez / Cirez)まで追い、30人のアルバニア人市民と4人のセルビア人警官が死亡した[21]。これが紛争において初の本格的な戦闘であった。 複数の捕虜の即決殺害や市民に対する殺害があったものの、西側諸国のユーゴスラビアに対する非難は、この時点ではあまり大きくならなかった。セルビア警察はヤシャリとその支持者をプレカジ=イ=ポシュテム / ドニェ・プレカゼ(Prekazi-i-Poshtem / Donje Prekaze)へと追撃した[22]。この3月5日の出来事は、西側諸国の政府からの大きな非難を呼んだ。アメリカ合衆国の国務長官マデレーン・オルブライトは、「この危機はユーゴスラビア連邦共和国の国内問題ではない。」と述べた。 3月24日、セルビア軍はドゥカジン(Dukagjin)作戦地帯にあったグロジャン / グロジャネ(Gllogjan / Glo?ane)の村を包囲し、村にいた反乱分子を攻撃した[23]。セルビア軍は火力の上で優位にたっていたものの、コソボ解放軍の部隊を壊滅させることはできなかった。アルバニア人側には死者や重傷者もあったものの、グロジャン / グロジャネでの反乱を抑えきることはできなかった。この地域は、後に続く紛争では抵抗勢力側の重要な拠点のひとつとなった。 また別のコソボ解放軍の重要な拠点はコソボとの国境に近いアルバニアの北部の、トポロヤを中心とした地域であった。続く1997年のアルバニア暴動によって、アルバニアの一部の地域では政府の統制が及ばなくなった。さらに、アルバニア軍の装備が略奪された。これらの略奪された兵器の多くは、後にアルバニア国境地帯に拠点を構えるコソボ解放軍の手に渡った。ここはコソボ解放軍による攻撃、そして武器をドレニツァ地方へと送り込む拠点であった。メトヒヤ平原には、ジャコヴァ / ジャコヴィツァ(Gjakova / ?akovica)を経由してアルバニアからドレニツァ、そしてクリナを結ぶ道路があり、コソボ解放軍の活動の初期の拠点であった。 コソボ解放軍の最初の目標はドレニツァの拠点とアルバニア本国の拠点を結ぶことであった。そして、戦闘の最初の数箇月でこれは達成された。コソボ解放軍は西側諸国、そしてイスラム世界からの支援を受ており、その中にはムジャーヒディーンたちも含まれる。 セルビア側は交渉の努力も続けており、イブラヒム・ルゴヴァの側の人員と会談もした。何度かに及んだ交渉がすべて失敗に終わった後、セルビア側の代表者ラトコ・マルコヴィッチ(Ratko Markovi?)はコソボの少数民族のグループを呼び、アルバニア側との交渉を続けた。セルビアの大統領ミラン・ミルティウノヴィッチ(Milan Milutinovi?)も会談に参加したが、ルゴヴァは参加を拒否している。ルゴヴァとその支持者らはセルビアではなくユーゴスラビア連邦との会 談を望んでおり、コソボの独立を目指す立場であった。