これらに加えて、コソボの経済状態の悪化が不安定化に拍車をかける要因となった。コソボの経済状態の悪化によってコソボのセルビア人は同地で職にありつく機会は失われていった。アルバニア人、セルビア人ともに、新しく労働者を採用する際には同じ民族の者を優遇したが、求職の数そのものが人口に対して極端に少ない状態となった。終局には、アルバニア人を自称している者の中に多くのイスラム教の信仰を持つようになったロマが含まれていると信じられるに至った。コソボはユーゴスラビアの中で最も貧しく、1979年の時点で一人当たりGDPは795ドルであった。これに対してユーゴスラビア全土での平均は2635ドル、最も豊かなスロベニアでは5315ドルであった。
コソボでは、アルバニア人の民族主義が拡大し、分離主義によってアルバニア人とセルビア人の民族間の緊張は高まっていった。有害な雰囲気が拡大し、危険な噂が蔓延し、小規模な衝突の数は増大していった。
セルビア科学芸術アカデミー(en、SANU)が1985年と1986年にコソボを去ったセルビア人について調査したのは、このような緊張関係に対してのものであった。[13]。報告では、この期間にコソボを去ったセルビア人の少なからざる部分は、アルバニア人による追放圧力によるものであると結論した。
SANUの6人の研究者らは、1985年6月に草案に基づいてこの仕事をはじめ、草案は1986年9月にリークされた。この「SANUメモランダム」は大きな議論を呼ぶものとなった。この文書では、ユーゴスラビアに住むセルビア人の置かれた困難な状況に焦点をあてており、セルビアの地位を低下させるティトーの周到な計画と、セルビア本国の外でのセルビア人の困難について述べている。
メモランダムはコソボに
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に高い関心を寄せ、「コソボにおけるセルビア人が
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的、政治的、法的、文化的ジェノサイドの対象とされており、1981年以降は全面戦争が進行中である」と論じた。このメモランダムでは、1986年時点でのコソボのセルビア人の地位は、セルビアがオスマン帝国から解放された1804年以降で最悪となっており、ナチス・ドイツの占領下にあった第二次世界大戦時や、オーストリア=ハンガリー帝国と戦った第一次世界大戦時よりも悪いとした。メモランダムの著者らは、20万人のセルビア人がこの20年間のコソボを去ったと主張し、急進的な改革がなければまもなくコソボからセルビア人はいなくなる、と警告した。メモランダムでは、その対処法として、「治安、およびコソボ・メトヒヤに住む全ての人々の明白な平等を保障すること」、そして「コソボを離れたセルビア人のコソボへの帰還を可能とする、永続的で実効性のある環境を作り出すこと」であるとした。メモランダムは「セルビアは、過去に見られたような、受身の姿勢で他者が何を言うかを待ってはならないとしている。
SANUメモランダムに対してはさまざまな反応があった。アルバニア人らは、これをコソボにおけるセルビア人優越主義を喚起するものであるとした。彼らは、コソボを去った全てのセルビア人は、単に経済的理由であると主張した。その他のユーゴスラビアの民族主義者、特にスロベニア人やクロアチア人は、セルビアの拡張主義の伸張であるとみた。セルビア人自身の見解は割れていた。多くのセルビア人らはこのメモランダムを歓迎した一方、
データ復旧
からの共産主義の守護者らはこれを激しく非難した[14] 。メモランダムを非難したセルビア共産主義者同盟の指導者の一人に、スロボダン・ミロシェヴィッチの名があった。
1988年、コソボ自治州の行政委員会の首班が逮捕された。1989年3月、ミロシェヴィッチはコソボおよびヴォイヴォディナでの「反官憲革命」(en)を宣言し、これらの自治権を剥奪し、外出制限をかけ、コソボでの24人の死者がでた暴力的なデモを理由にコソボに対して非常事態宣言を発令した。ミロシェヴィッチと彼の政府は、セルビアの憲法変更はコソボに留まるセルビア人を、多数派を占めるアルバニア人による迫害から保護するために必要不可欠であるとした。
スロボダン・ミロシェヴィッチが1990年、コソボとヴォイヴォディナの自治権を剥奪し、ミロシェヴィッチの支持者によって選ばれた新しい地元の指導者へと挿げ替え、コソボの権限縮小のプロセスを大きく進めた[14]。両自治州はユーゴスラビアの6つの構成共和国と同様にユーゴスラビア連邦の大統領評議会に議決権のある代表者を持っていたため、コソボ、ヴォイヴォディナをミロシェヴィッチ派が乗っ取ったことにより、ミロシェヴィッチ派の
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となった両自治州とセルビア、モンテネグロを併せて、大統領評議会の8議席のうち4議席をミロシェヴィッチが独占することになった[14]。そのため、これ以外のユーゴスラビアを構成する4箇国、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの代表者は、ミロシェヴィッチによる憲法改正の計画を阻止するために共同行動を維持し続けなければならなかった。セルビアの体制変更は1990年7月5日、コソボを含むセルビア全土での住民投票によって可決された。これらの動きによって、80,000人のアルバニア人がコソボで職を追われることになった。コソボの全ての高等教育に対して、新しいセルビアの教育カリキュラムの導入が強いられた。この動きをアルバニア人は拒絶し、既存の教育機関と並存する独自の教育システムを設立した[15]。
コソボへの影響は絶大なものであった。自治権の縮小は、コソボの政治機構の解体を伴うものであった。コソボ共産主義者同盟、コソボ州政府、議会は公式に解体された。コソボの産業の多くは州が保有していたが、これらの企業の中枢は抜本的に入れ替えられた[14]。形式的には、少数の企業はその例外となった。政府は企業に対して忠誠の誓約を要したが、ほとんどのコソボのアルバニア人はその署名を拒否して追放されたものの、ごく一部は署名に
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し、セルビアの国有企業となった後も雇用を解かれずにいた。
アルバニア人の文化的自治も劇的に削減された。唯一のアルバニア語の新聞である「Ridilin」は発禁され、アルバニア語でのテレビ、ラジオ放送は中止された。アルバニア語は州の公用語から外された。プリシュティナ大学はアルバニア人民族主義の温床と見られていたが、大規模に粛清された。800の講義は閉鎖され、23,000人の学生のうち22,000人は追放された。40,000人程度いたユーゴスラビア軍の兵士や警官は、それまでのアルバニア人による治安維持機構から取って代わった。強権体制は「警察国家」との非難を受けた。貧困と失業は壊滅的な状況に達し、コソボの人口のおよそ80%は失業者となった。アルバニア人成人男性の3分の1は職を求めて国外(ドイツやスイスなど)へと流出した。
ミロシェヴィッチによる
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共産主義者同盟の解体によって、アルバニア人による最大の政治勢力はイブラヒム・ルゴヴァの率いるコソボ民主同盟へと移った。コソボ民主同盟は、コソボの自治権剥奪に対して平和的手段で抵抗することで応じた[15]。ルゴヴァは現実的な理由から、武装闘争を選択しなかった。武装闘争はセルビアの軍事力の前には無力であり、単に流血を招くだけと考えたためである。ルゴヴァはアルバニア人らに対してユーゴスラビア、セルビア国家へのボイコットを求め、選挙の不参加、徴兵の拒否、そして納税の拒否を呼びかけた。ルゴヴァはまた、並存するアルバニア語の学校、病院、診療所の設置を呼びかけた[14]。1991年9月、コソボの「影の」議会はコソボの独立を問う住民投票を実施した[14]。セルビア治安部隊による妨害や暴力にも関わらず、コソボのアルバニア人人口の90%の投票率であったと報告されている。そして、うち98%、およそ100万表がコソボ共和国の独立に賛成した[15]。1992年5月、2回目の選挙ではルゴヴァを大統領に選出した。セルビア政府はこれらの投票を違法であり、その結果は無効であるとした。