1995年春、4ヶ月停戦の期限が切れると、再び激しい戦闘が始まった。セルビア人勢力とボシュニャク人勢力の間では、セルビア人勢力が最後の攻勢に出た。7月にはボシュニャク人勢力が保持していたスレブレニツァ、ジュパが陥落、サラエヴォ、ゴラジュデも激しい攻撃にさらされた。一方、セルビア人勢力とクロアチア人勢力の間では、クロアチア軍と連携したクロアチア人勢力が優勢であった。戦闘は、ボスニア・ヘルツェゴビナではなく、隣接するクロアチア国内のセルビア人居住区で行われた(クロアチア戦争#「嵐作戦」参照)。この間の5月から7月にかけて、セルビア人勢力の攻勢に対し、NATOはセルビア人勢力の拠点を攻撃することで対応した。また、6月3日にNATOは、国連保護軍の保護を目的とする緊急対応部隊を設立、セルビア人勢力による人質作戦への対応を行った。8月28日、サラエヴォ中央市場に砲撃が行われ、37人が死亡する事件が起きた。この事件をきっかけに、NATOはこれまでにない大規模空爆・デリバリット・フォース作戦を実施する。8月30日から9月14日まで(9月2日から4日は一時停止)というこれまでにないものであった。この結果、セルビア人勢力は、クロアチア方面で敗退しただけでなく、ボシュニャク人勢力からの反撃を支える力も失った。これにより、セルビア人勢力も和平交渉への本格的な参加を決定し、10月13日には停戦が実現して戦闘が終結した。
そもそも、「民族浄化(エスニック・クレンジング)」とは西側メディアの作った造語である。ボスニア政府から依頼を受けたPR企業がこの言葉を発掘し、虐殺の象徴として外交文書、公式発表などに多用されたことによって徐々に一般言語化されるに至った。
詳細はスレブレニツァの虐殺を参照
1995年、ボシュニャク人の武装グループがセルビア人居住区のブラトゥナツを攻撃し、セルビア人の老若男女に多数の犠牲者が出た。ブラトゥナッツの南西10kmに位置するスレブレニツァは当時国連保護軍の指揮下にある安全地区に指定されていたが、NATOが空爆の準備を始めるとセルビア人勢力はこれに対抗し国連軍兵士を捕虜とした。7月6日、ムラジッチ率いるセルビア人勢力はボシュニャク人のセルビア人虐殺に対する報復としてスレブレニツァに侵攻、11日には中心部に進軍した。12日セルビア人勢力はスレブレニツァに居住していたボシュニャク人の男子を一人残らず虐殺。また、残された女子に対し集団レイプを行った上、一定期間強制収容し出産せざるを得ない状況に追いこんだ。
両地域ではセルビア人とボシュニャク人の間に今なおわだかまりが残っている。一方でクロアチア人やボシュニャク人も虐殺や強制連行を行っていたという証言も多数あり、セルビア人だけが非人道的行為に及んでいたとする認識は誤りである。
合意文書への署名
5か国の首脳らが見守る中で当事3か国首脳により署名された。戦闘中もボスニア3分割案などによって和平が模索されたが、NATOによるセルビア側への攻撃を含んだ介入によって停戦となった。1995年10月、アメリカ合衆国のクリントン大統領が内戦の当事国間による平和協定妥結を発表した。そして11月に、アメリカ・デイトンのライト・パターソン空軍基地に内戦の当事国であるボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビアの各大統領が集まり、43ヶ月間にわたった内戦終結のための平和協定に仮調印した。12月、NATOは6万人のボスニア和平実施部隊(IFOR)派遣を承認し、12月14日にはパリで和平が公式に合意(デイトン合意)・調印されて戦闘は終息した。
合意により、クロアチア人・ボシュニャク人がボスニア・ヘルツェゴビナ連邦、セルビア人がスルプスカ共和国というそれぞれ独立性を持つ国家体制を形成し、この二つが国内で並立する国家連合として外形上は一国と成すこととなった。
領土配分は、スルプスカ共和国が約49%、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦が約51%とされ[1]、両国はそれぞれの主体が独自の警察や軍を有するなど高度に分権化された(その後、軍は統合された他、警察制度についても改革が議論されている)。
セルビア人、アルバニア人の間には20世紀を通して常に民族間の対立があり、大規模な暴力行為へと頻繁に結びついた。特に第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期には頻発した。第二次世界大戦後、社会主義体制をとるヨシップ・ブロズ・チトーの政府はユーゴスラビア全域において民族主義者の活動を体系的に抑止し、ユーゴスラビアのいかなる構成国も、ヘゲモニーとなってユーゴスラビアを牛耳ることのないように努めた。特に、セルビアは、ユーゴスラビアの中で最大で、最も多くの人口を抱えていた。そのため、セルビアの影響力を制限するために、セルビア北部のヴォイヴォディナと南部のコソボ・メトヒヤはそれぞれヴォイヴォディナ自治州、コソボ・メトヒヤ自治州としてセルビア本体から切り離された。コソボの国境はユーゴスラビアにおけるアルバニア人の居住地域の境と完全には一致していなかった。多数のアルバニア人住民はコソボ域外のマケドニア、モンテネグロ、セルビア本体に残された一方、コソボの北部には多くのセルビア人が住む地域が含まれた。いずれにしても、新設されたコソボの領域全体では、1921年の段階でアルバニア人が多数派であった。
コソボの公的な自治は1945年に
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憲法によって定められ、大きな自治権は与えられなかった。チトーの秘密警察(UDBA)は民族主義者を厳しく弾圧した。1956年には、多くのアルバニア人がコソボにおいて国家転覆の企てとスパイの容疑で訴追された。分離主義による脅威は実際にはそれほど大きなものではなく、少数の地下活動組織がアルバニアへの統合を求めて活動しているのみであり、政治的には大きな影響力を持ち得なかった。しかしながら彼らの活動のもたらす長期的な影響は小さくなく、アデム・デマツィ(Adem Demaci)によって組織されたアルバニア人統一革命運動は、後のコソボ解放軍(Ushtria Clirimtare e Kosoves; UCK)の政治的中核となっていった。デマツィ自身は1964年に他の賛同者らとともに投獄されている。
ユーゴスラビアでは1969年、政府による大規模な経済再建プログラムによって豊かな北西部と貧しい南部の地域の間で貧富の差が拡大し、政治的・経済的な危機を迎えていた。しかしながら、ユーゴスラビアおよびセルビアにおける真のアルバニア人の代表の設置を求め、アルバニア語の地位向上を求める学生らの要求に、チトーは応じることになった。1970年には、ベオグラード大学の下部組織であったプリシュティナ大学が独立の教育機関として設置された。コソボにおける教育のアルバニア語化は、ユーゴスラビア国内でのアルバニア語教材の不足により困難となったが、アルバニア人自身が教材を用意することで合意された。
1974年、コソボの政治的地位は、ユーゴスラビアの憲法改正に伴って大きく向上し、コソボの政治的権利は拡大された。ヴォイヴォディナとともに、コソボは他のユーゴスラビア構成国と多くの面において同等の地位を持つコソボ社会主義自治州となった。政治権力は依然として共産主義者同盟が独占していたものの、独自のコソボ共産主義者同盟がその中核を担うようになった。
1980年5月4日のティトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。チトーの死後、コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。抗議者らはコソボをユーゴスラビアの7番目の構成共和国とすることを求めた。しかしながら、この要求はセルビアおよびマケドニアには受け入れられるものではなかった。多くのセルビア人たち、そしてアルバニア人民族主義者ら自身も、この要求は大アルバニア主義への始まりとみていた。大アルバニア主義はコソボ全土とモンテネグロ、マケドニアの一部をアルバニアへと組み込むことを目的としている。ユーゴスラビアの共産主義政府は非常事態を宣言し、
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や警察を大量投入して
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を鎮圧した。しかし、このことによってセルビアの共産主義者らが要求していたコソボの自治権廃止には至らなかった。ユーゴスラビアの新聞は、11人が死亡し、4,200人が投獄されたと発表した。別のものはこの騒動での死者は1000人を超えるものと主張している。
コソボ共産主義者同盟の間にも粛清が行われ、その党首をはじめ重要人物らが追放された。あらゆる種類の民族主義に対して強硬路線がとられ、セルビア人、アルバニア人双方の民族主義者らに対する取締りが行われた。コソボには大量の秘密警察が配置され、当局に認められていないセルビア人、アルバニア人双方の民族主義の活動を厳しく弾圧した。マーク・トンプソン(Mark Thompson)の報告によると、コソボの住民580,000人が逮捕され、尋問され、拘留され、あるいは懲戒された。数千人が職を失い、あるいは教育機関から追放された。
この間、アルバニア人とセルビア人の共産主義者の間の緊張は高まり続けていた。1969年、セルビア正教会はその司教に対してコソボでセルビア人に対して起こっている問題に関する資料収集を命じ、ベオグラードの政府に対してセルビア人の立場を守るよう圧力をかけることを模索した。1982年2月、セルビア本国からセルビア人の神品(聖職者)らの集団が「なぜセルビア正教会は沈黙しているのか、なぜ進行中のコソボの聖堂に対する破壊行為、放火、冒涜行為に対して抗議活動をしないのか」と求めた。このような懸念はベオグラードの政府の関心をひきつけた。コソボにおいてセルビア人やモンテネグロ人が迫害を受けているとする多くの話が日々紹介された。恐怖と不安定化を招く重大な事実として、コソボのアルバニア人マフィアによる麻薬取引の話があった。