この状況を最終的に「解決」したのが、クロアチアによる「嵐作戦」であった。1995年になるとクロアチアは、アメリカ合衆国、ロシア、欧州連合、国連が提示するセルビア人勢力に一定の自治権を認める和平案に対して譲歩の姿勢を見せ時間を稼ぐ一方で、セルビア支配地域に展開する国連平和維持軍の活動期限切れに伴う早期の撤退を強く促していた。
平和維持軍の活動は規模を縮小することで同意されたが、その直後の5月にまず、クロアチア軍は西スラボニアを急襲。セルビア人の追い出しにかかった。続く8月3日から始まった「嵐作戦」ではクライナ・セルビア人共和国の首都クニンを目指して侵攻。わずか3日間の戦闘でクニンを占領した。この時の死者は約150人(但し、これはクロアチア側の公称である。セルビア側発表では最低でも婦女子を主体とする2,600人が虐殺されたとされる)。主にボスニアのセルビア人支配地域を経由してセルビアに流出したセルビア人難民は15-20万人と見積もられている。この作戦を指揮したクロアチア軍将軍アンテ・ゴトヴィナはクロアチアの英雄として祭り上げられたが、一方で大量虐殺と大量の難民を生み出した事により旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追された。ゴトビナは2005年12月にスペインのカナリア諸島で拘束され、ハーグに移送されたが、これに対しては「最小限の人的被害で、クロアチア国内のセルビア人問題を解決させたものである」としてクロアチア国内からの反発は大きい。
西スラボニアとクライナの喪失により、クロアチア国内のセルビア人は圧倒的な少数に転落した。セルビア共和国と国境を接している東スラボニアには未だセルビア人勢力が残留していたが、1995年11月11日に、同所のセルビア人勢力が東スラボニアを放棄することでクロアチアとの合意が成立した。
クロアチアの人口変動クロアチア紛争は、クロアチアの人口と民族分布に大きな変化をもたらした。
クロアチアの人口は1992年から1995年にかけて約475万人から約440万人に減少した。2003年までは440万人の水準で変移しており、戦前の人口が回復していないことが分かる。
また、ユーゴスラビア
おせち
の国勢調査となる1991年と、クロアチアで最初の国勢調査となる2001年のデータを比較すると、1991年に全体の78.1%であったクロアチア人の比率は、2001年には89.63%まで増加。一方で、セルビア人の比率は12.2%から4.54%まで減少した。
即ち、戦前後の人口減少、約35万人分はセルビア人の減少分、約8%におおよそ相当していることが読み取れる。これはクロアチア国外に逃れたセルビア人難民の帰還に対して、クロアチア政府が積極的ではないことを提示している。
2003年には1990年の国内総生産の水準を達しており、経済的指標は改善の方向へ向かっていることを指し示している。2008年時点の一人あたりの国内総生産は16,758ドルと、ユーゴスラビアを構成していた諸国の中ではスロベニアに次いで高い。
クロアチアのアドリア海沿岸にあたるダルマチアは観光業が主な産業のひとつであるが、その中でも世界遺産に登録されているドゥブロヴニクは紛争の影響から危機遺産に指定されたが、1998年に除外されている。ユーゴスラビア解体の動きの中で、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立を宣言したが、独立時に約430万人の人口のうち、民族構成の33%を占めるセルビア人と、17%のクロアチア人・44%のボシュニャク人(ムスリム人)が対立し、セルビア人側が分離を目指して4月から3年半以上にわたり戦争となった。
両者は全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死者20万、難民・避難民200万が発生したほか、ボシュニャク人女性に対するレイプや強制出産などが行われ、第二次世界大戦後のヨーロッパで最悪の紛争となった。
1991年6月、クロアチアの独立宣言をきっかけに、
塗装工事
とユーゴスラビア連邦軍との間で武力衝突が勃発した(クロアチア紛争)。それを契機に、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立を求めるボシュニャク人・クロアチア人と、独立に反対するセルビア人との間で対立が深まり、セルビア人はクロアチアと同様に自治区を設立して独立の動きに対抗しようとした。だが、当時ボシュニャク人主導だったボスニア・ヘルツェゴビナ政府は自治区設立を認めなかったので、セルビア人との間で武力衝突も生じるようになった。
そのような状況の中、セルビア人の反発を無視し、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府は1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年2月29日から3月1日にかけて独立の賛否を問う住民投票を行なった。住民投票は、セルビア人の多くが投票をボイコットしたため、90%以上が独立賛成という結果に終わる。これに基づいて、ボスニア・ヘルツェゴビナは独立を宣言、4月6日にはECが独立を承認し、5月には国際連合に加盟した。独立に不満を抱いていたセルビア人は、ECの独立承認をきっかけに大規模な軍事行動を開始し、翌日にはボスニア・セルビア議会がボスニア北部を中心に「スルプスカ共和国」の独立を宣言した。
紛争の開始直後は、その数と
予備校
の質において、セルビア人勢力が優勢であった。ボシュニャク人勢力は装備の質で劣り、クロアチア人勢力は数の面で劣っていた。しかも、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力は、必ずしも緊密に連携しているわけではなかったのである。そのため、セルビア人勢力は、最初の攻勢でボスニア・ヘルツェゴビナ全土の6割以上を制圧、サラエヴォを包囲する。クロアチア人勢力は、ヘルツェゴビナ西部の確保に専念、ボシュニャク人勢力は残るサラエヴォ、スレブレニツァ、ゴラジュデ、ジェパなど主要都市を含む3割弱を必死に防衛するという状況になった。国際社会は、セルビアへの制裁、サラエヴォへの人道支援などを行うが、戦局の大勢を動かすまでには至らず、92年中はその状況が続いた。
1993年春、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間での対立が深まり、クロアチア人勢力は同年8月にヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言した。セルビア人勢力と争う地域が少なくなっていたこともあり、クロアチア人勢力はセルビア人勢力と同盟を結ぶ。モスタルなどでは、ボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で激しい戦闘が開始された。これにより、ボシュニャク人勢力は一層の苦境に立たされた。
94年に入ると、アメリカの圧力によりクロアチア人勢力が再びボシュニャク人勢力と同盟を結んだ。3月1日にはワシントンで、ボシュニャク人・クロアチア人の連邦国家が結成されることも決定された。これは、アメリカによる対セルビア人勢力弱体化への第一歩であった。4月10日から11日にかけては、小規模なものではあるが、北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への空爆が実施された。8月5日、セルビア人勢力が国連管理下の武器集積所を襲撃するという事件が起きる。これに対してもNATOによる空爆が行われた。NATOによる空爆に加えて、秋ごろからは、アメリカによるボシュニャク人・クロアチア人勢力に対する軍事援助も開始された。
これにより勢いづいたボシュニャク人勢力は、10月下旬、セルビア人勢力に対して、ビハチ周辺で攻勢に転じる。この攻勢は一時的には成功したが、11月初めには早くもセルビア人勢力による反撃に遭い撤退を余儀なくされた。これを支援するため、11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆が実施される。繰り返される空爆に対し、セルビア人勢力は少数・軽武装で活動していた国際連合保護軍兵士を人質として拘束するという手段をとった。これにより、国連保護軍に兵士を派遣しているイギリス・フランスとさらなる空爆を求めるアメリカとの間で意見が対立、NATOは機能不全に陥る。紛糾した事態は、ジミー・カーター元アメリカ大統領による和平交渉で打開された。これにより、95年1月1日から4ヶ月の停戦が実現した。