1991年3月、サンコー率いる革命統一戦線(RUF)も同胞のテーラーのNPFLの内戦の影響を受けて、リベリア国境付近のシエラレオネ南東部で武装蜂起した。。リベリア国民愛国戦線(NPFT)の支援を受け、リベリアから越境攻撃を繰り返した。その頃、シエラレオネの政権では1992年4月29日、バレンタイン・ストラッサー率いる軍の下級将校が軍事クーデターを起こし、モモーは政権の座を奪われギニアに逃亡した。そしてストラッサーが国家元首になった。ストラッサーの当初の目的は国内に侵入したリベリアのテーラー率いるNPFl及びそれに合流したサンコー率いるRUFの反政府活動を鎮圧する事であったが、RUFはその後、虐殺や略奪を重ねながら広範な領域を支配して行き、東部州などを支配下におさめた。領域内で産出されるダイヤモンドを資金源に大きな勢力を振い[1]、そしてついに首都フリータウンを占領した。一時、テーラーのNPFLの支配地域が減少するにつれ、RUFの勢力が衰えていたように見え、政情が行き詰りを見せたが、1993年にストラッサーはRUFに対して一方的に休戦を宣言したため反乱軍側の兵士に大赦を与えてしまった。その後、モモ政権に参加していた26人がストラッサーを倒そうとする、クーデター未遂事件が発覚。ストラッサーはクーデター陰謀の容疑でその26人を処刑するが、1995年政権内部でクーデターが起こり、ストラッサーは政権を追われてしまった。
1996年1月、ビオ准将による無血クーデターが実行される。翌2月に大統領・議会選挙が行われ、3月には自由選挙により、アフマド・テジャン・カバーが大統領として文民政権に就任した。しかしRUFはこの文民政権とも激しく対立した。
1997年5月に軍事クーデターでカバー大統領から権力を奪った軍事革命評議会(AFRC)のジョニー・ポール・コロマ少佐が国家元首になり、RUFと一時期ではあるが、手を組んだ。この軍事政権はナイジェリアなどを中心とした西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)の軍事介入で短命に終わったが、復活したカバー文民政権とRUFの対立はとどまるところを知らなかった。
1997年にリベリアで装蜂していた、サンコーの同胞、テーラーがついにリベリアの権力を握った。テーラーは同胞のサンコーを支えるため武器支援と引き換えにダイアモンドを密輸して行った。
1998年10月、サンコー議長の死刑判決を受け、これを契機に、RUFが全土で大攻勢を仕掛け、最終的には全国土の首都を含む、3分の2以上をその支配下に収めた。その後、1999年7月にはロメ和平合意がなされ、国連監視下での武装解除と引き換えに、RUFの政権参加が認められる事となったが、RUF側は武装解除に応じなかった。しかし、16日に逃亡中のRUFのサンコーがフリータウンの自宅で市民により、拘束されシエラレオネ警察に引き渡されると、状況は変る。
2000年5月にRUFが国連PKOの要員約500名を人質とした事件が発生。この事件はリベリアの仲介により解決する。政府はRUFと停戦に合意。RUF側は政府側の武装解除の要求に応じて行き、カバー政権は2002年1月18日に武装解除を終了宣言し、3月1日にはついに内戦終結を宣言した。同年の5月にカバ大統領が再選。10年以上行われた紛争は終止符を打った。拘束されたサンコーは2003年戦争犯罪の罪で裁判に掛ける予定だったが元々、衰弱していた病気のためフリータウンの病院で死亡した。またサンコーの同胞テーラーも同年に圧力によりリベリアの政権を追われ逃亡の末、逮捕され、シエラレオネ内戦に関与したとしてフリータウンの裁判に掛けられ、連行された。その後、2005年12月に国連PKO(最大時は約17000人も参加)は完全に撤退、2007年8月にコロマ大統領が就任した。現在は、経済再建に取り組んでいる。
多民族国家のユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、戦後にパルチザン勢力を率いる指導者のヨシップ・ブロズ・チトーによって独立を達成する。この国は後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家(または一人のチトー)」といわれるほどの多様性を内包していた(後述)。
戦後の世界ではアメリカ合衆国を中心とする西側陣営とソ連を中心とする東側陣営が対立する冷戦がはじまる。ユーゴはチトーが共産主義者であり東側陣営に属するが、ポーランドやハンガリー、ルーマニアなどの東欧諸国とは違い、ソ連の衛星国では無い独自の社会主義国家としての地位を保っていた。
1980年にチトーが後継者を定めないまま死去し、ソ連国内においてはゴルバチョフ指導による民主化が進み、ルーマニアにおけるチャウシェスク処刑に代表される東欧民主化で東側世界に民主化が広がり共産主義が否定されると、ユーゴにおいても共産党による一党独裁を廃止して自由選挙を行うことを決定し、ユーゴを構成する各国ではチトー時代の体制からの脱却を開始する。また、各国ではスロボダン・ミロシェヴィッチ(セルビア)やフラニョ・トゥジマン(クロアチア)に代表されるような民族主義者が政権を握り始めていた。ユーゴの中心・セルビア共和国では大セルビア主義を掲げたスロボダン・ミロシェヴィッチが大統領となり、アルバニア系住民の多いコソボ社会主義自治州の併合を強行しようとすると、コソボは反発して1990年7月に独立を宣言し、これをきっかけにユーゴスラビア国内は内戦状態となる。
1991年6月に文化的・
FX
に西側に近いスロベニアが10日間の地上戦で独立を達成し(10日戦争)、次いでマケドニア共和国が独立、ついで歴史を通じてセルビアと最も対立していたクロアチアが激しい戦争を経て独立した。ボスニア・ヘルツェゴビナは1992年に独立したが、国内のセルビア人がボスニアからの独立を目指して戦争を繰り返した。セルビア国内でもコソボ自治州が独立を目指したが、セルビアの軍事侵攻によって戦争となった(コソボ紛争)。
複雑な歴史背景による入り組んだ民族配置は完全には解消されてはいないものの、NATOや国際連合の介入により紛争は収められた。
スロベニア紛争(十日間戦争)(1991年)
スロベニアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。規模は拡大せずに10日で解決した。十日戦争、あるいは独立戦争。
クロアチア紛争(1991年 ? 1995年)
クロアチアがユーゴスラビアからの離脱・独立を目指した戦争。歴史的な対立を背景に戦争は泥沼の様相を呈したが、4年の戦争の末に独立を獲得した。
ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア紛争)(1992年 ? 1995年)
コソボ紛争(1999年 - 2000年)
マケドニア紛争(2001年)
といわれるほどの多様性を内包した国家であった。
さらに、「五つの民族」には含まれていない主要民族であるボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア南西部・モンテネグロ西部(サンジャク地方)に多いムスリム人、セルビア南部のコソボ自治州やマケドニア共和国西部に多いアルバニア人、
不動産
北部のヴォイヴォディナ自治州に多いハンガリー人、またロマ人などが存在した。
セルビア語とクロアチア語は、言語学上は同一言語とみなされていた。実際、日本における東京の言葉と関西の言葉ほどの違いすらないといわれる。主な違いとしてはセルビア語はキリル文字、クロアチア語はラテン文字を使う。また「川」という言葉はセルビア語では "reka"(レーカ)、クロアチア語では "rijeka"(リェーカ)というように、一部言語の発音・綴りが微妙に異なる。また「サッカー」はセルビア語では "futbal"、クロアチア語では "nogomet" と言葉によっては全く異なるものもある。
十日間戦争(とおかかんせんそう、sl: Slovenska osamosvojitvena vojna)は1991年、スロベニアの独立宣言を受けてユーゴスラビア連邦軍が、スロベニアに侵攻、展開された戦闘である。この戦闘自体は1991年6月27日から10日間程度で終結したが、この戦争が泥沼化するユーゴスラビア紛争の鏑矢になった。スロベニア自体は独立反対派の急先鋒であったセルビアと直接国境を接しておらず、スロベニアとセルビアの間にあったクロアチアも同時に独立を宣言したため、セルビアの戦闘継続能力が削がれた事と、スロベニア国内にセルビア側に加担する動きが皆無だった事がこの戦争の短期間での終結に繋がった。
当時のスロベニアの特徴としてユーゴスラビア構成国の中では最も高い経済水準、そして民族の均一度の高さがあった。また1980年代以降ユーゴスラビア全土に広まったナショナリズムの傾向も背後にあった。
スロベニアは現在でも
外為
の高い国である。ユーゴスラビアから独立した当時、ユーゴスラビアの総人口の10%を少し切る程度の人口しか無かったスロベニアであるが、共和国別で見た雇用、所得、輸出の数値はユーゴスラビアの中で最も高く、最も経済水準の低いマケドニア共和国とスロベニアの間の国内の経済格差は8倍程度あったといわれている。
又スロベニアは2004年5月1日に旧ユーゴスラビア構成国の先陣を切ってヨーロッパ連合(EU)に加盟したが、この時一緒に加盟した東欧7ヶ国とマルタ、キプロスと比べても、国民一人あたりの国内総生産はこれらの国の中でトップであった。又EU加盟時点での一人あたりの国内総生産で比べた場合ほぼギリシャに匹敵し、すでにポルトガルを抜いていた。これは旧東欧諸国の中でも目を見張る経済成長の速さで、ユーゴスラビアから独立したときからこの経済成長の土壌が整っていた事を現している。この事からもスロベニアの経済水準の高さを伺い知ることが出来るであろう。
このように経済水準が高かった背景には、地理的にオーストリア、イタリア(特に北イタリア)に接しており、ユーゴスラビアの中でも最も西ヨーロッパに近く、当時から西側との経済交流が盛んであった事。民族的に見てスロベニア人は勤勉であり、「ドイツ人気質」が強かった事。この2つがあげられる。特に「ドイツ人気質」については、スロベニアはオーストリア・ハンガリー帝国内ではハンガリー王国領ではなくオーストリア帝国領に属しており、当時から文化、資本、人がオーストリアから流れ込んできていた。スロベニア語は当時からあったが、地域によってはドイツ語を話すスロベニア人の方が多かった地域もある。これらの地域の中には第一次世界大戦後、住民投票によってオーストリア領に編入された地域もある。スロベニア人は今でもドイツ語とのバイリンガルが極めて多い。彼らがドイツ語を理解することもスロベニアの経済成長の一助となっている。
つまりスロベニアは、「ユーゴスラビアにおいては、政治の中心はベオグラードにあってセルビア人が主導しているが、経済はスロベニアが牽引している。スロベニア1国だけだともっと経済水準を上げられるのに、セルビアやマケドニアが足を引っ張っている。彼らと一緒の国の中にあるよりも、独立して西側と経済的な結びつきを深めたほうが得だ」と考えたのである。